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【ひな祭り特集】少女映画の世界

2022/03/11

 3月3日はうれしいひな祭り♪小さな娘さんがいらっしゃるご家庭ではおひなさまを飾った方も多いことでしょう。旧暦の3月3日が桃の花が咲く時期だったことから、桃の節句とも呼ばれますね。その由来は平安時代までさかのぼり、年中行事として一般的に定着したのは江戸時代なのだとか。全国各地で飾り方に地域ごとの特色があったり、おひなさまを水辺に流す「流し雛」という風習もあったりと、行事のあり方は様々ですが、女子の健やかな成長を祈るという意味では変わりません。
 そんなひな祭りにちなんで、今回の「どれ観よ PICK UP」ではビデックスで配信中の少女映画をご紹介します!!不思議な世界に迷い込んだり、男の子のふりをしてみたり、捨て犬の群れとともに反乱を起こしたり、ロボットと友達になったり、ドラゴンの背中に乗って冒険の旅に出たり、環境問題の危機を世界に訴えかけたりと、映画の少女たちはいつでも大忙し!!ときに大人顔負けの活躍をみせる少女たちの勇姿をぜひご覧あれ!!(スタッフT.M.)

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洋画

洋画アニメ

邦画

邦画アニメ

(C)2017 FLORIDA PROJECT 2016, LLC. (C) CONDOR FEATURES. Zurich / Switzerland. 1988 (C) Hold-Up Films & Productions/ Lilies Films / Arte France Cinéma 2011 2014(C)Proton Cinema, Pola Pandora, Chimney (C)Gift Girl Limited/ The British Film Institute 2016 (C) 2020 B-Reel Films AB, All rights reserved. (C)VERTOV SIA,VERTOV REAL CINEMA OOO,HYPERMARKET FILM s.r.o.ČESKÁ TELEVIZE,SAXONIA ENTERTAINMENT GMBH,MITTELDEUTSCHER RUNDFUNK 2015 (C)2014 Les Films du Worso ?Dune Vision (C) 2015 MAKING MOVIES/KICK FILM GmbH/ALLFILM (C) 2014 ONE & TWO LLC (C) ORIGAMI FILMS / BEE FILMS / DAVIS FILMS / SCOPE PICTURES / FRANCE 2 CINEMA / CINEMA RHONE-ALPES / CE QUI ME MEUT ? 2015 (C)2015 Galaxy Media and Entertainment. All rights reserved. (C) 2016 Hush Money Film, LLC. All Rights Reserved. Copyright 2016 Restoration Films (C)COPYRIGHT 2016 COPYRIGHT LET’S BE EVIL LTD (C) GET OFF THE ROAD 2017 (C) GET OFF THE ROAD 2017 (C) Copyright Studio dim, Wady Films, Filmbin, Masterfilm, Artileria, Senca Studio, Fabrika Sarajevo, 2019. (C) My Guardian Angel. Copyright(C) 2018 CL Film Project I LLC All Rights Reserved. (C)2019 NEXT ENTERTAINMENT WORLD & YONG FILM & DEXTERSTUDIOS. ALL RIGHTS RESERVED. (C) 2015 BLUE EYES FICTION/Sony Pictures Releasing (C) 2018 BLUE EYES FICTION GNBH & CO.KG (C) Buena Vista International (Germany) GmbH / blue eyes Fiction GmbH & Co. KG, Photos: Marco Nagel / Joe Voets (C)2017 ZODIAC PICTURES LTD. / MMC ZODIAC GMBH (C)2015/JE SUIS BIEN CONTENT STUDIOCANAL KAIBOU Production UMT Inc. NEED Productions ARTE France Cine’ ma JOUROR Distribution RTBF TCHACK (C)Happiness Road Productions Co., Ltd. (C)Keyring. All Rights Reserved (C) 2018 LICENSING BRANDS (C)2016 GOLD VALLEY FILMS, CO., LTD.. All Rights Reserved. (C)Shenzhen Global Digital Film & Television Culture Co., Ltd. (C)2020 Storm Films AS, Volya Films BV and Evolution Films S.R.O.All rights reserved (C)1993読売テレビ放送株式会社 (C)1983 キティフィルム (C) Rockwell Eyes Inc. (C) 2016『少女椿』フィルム・パートナーズ (C)2006 ゼロ・ピクチュアズ/朝日放送 (C) 2019映画『駅までの道をおしえて』production committee (C)「黄泉がえる少女」製作委員会 (C)2016「島々清しゃ」製作委員会 (C)XFLAG (C)タツノコプロ (C)Makoto Shinkai / CMMMY (C)2019こうの史代・双葉社 / 「この世界の片隅に」製作委員会 (C)KENJI STUDIO (C)VisualArt’s/Key/planetarian project (C)2005 映画「ガラスのうさぎ」製作委員会 (C)2003 映画「もも子」製作委員会 (C)1995 映画「5等になりたい」製作委員会 (C)2007 映画「大ちゃん」製作委員会 (C)2001 映画「ダイオキシン」製作委員会 (C)1999 映画「ハッピ-バ-スデ-」製作委員会

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喪の果てへの旅 黒沢清『岸辺の旅』

2022/02/25


死んだ人たちの伝達は生きている
人たちの言語を越えて火をもって
表明されるのだ。

- T.S.エリオット『四つの四重奏曲』より
西脇順三郎訳

1.「水で、という気はしてたの」

 柔らかい陽光が、穏やかな微風に揺れるレースカーテン越しに流れ込んでいて、静かに部屋を満たす。小鳥のさえずりが聴こえる。たどたどしいテンポでピアノを弾く少女は、いくつかの小節を弾き終えると頼りなさげな表情で振り返る。

「もう一度最初から。焦らないで、ゆっくり」

 ピアノ教師である薮内瑞希(深津絵里)は、少女の傍らにそっと歩み寄り、彼女の不安を和らげるように優しい声でそう告げる。少女の顔の高さに合わせるため、腰を曲げかがんだ姿勢になった瑞希の横顔は、肩まで伸びた黒髪で隠されていて、形の良い鼻先と唇だけが覗いている。
 黒沢清の諸作において、死者(あるいは死)の表象とは、鮮明に映されてしかるべき人物の顔が朧げにしか映されないことで示されてきたのを思い出す。『岸辺の旅』の主人公である瑞希の顔が初めて近い距離で示されるショットでもまた、彼女の表情が判別することのできないアングルにキャメラが置かれているからだ。まだ映画がはじまって間もない冒頭部分、それもピアノの練習風景という穏やかな日常的シーンでありながら、たった一つのショットによって濃密な死の気配が画面いっぱいに立ち込めていく。黒沢清の作品を見ることとは、それがいつの時期のどんなジャンルに属するものであれ、この濃密な死の気配を全身で受け止める体験に他ならないということは誰もが知っているだろうが、それでは『岸辺の旅』の観客もまた、たとえば『CURE』のように人間心理の底知れぬ暗闇に深く埋没する恐怖を味わうことになるのだろうか。
 たしかに、続くシーンでようやく表情を露わにした瑞希の顔貌はどこか生気を欠いていて、まるで自分が死んだことに気づいていない死者がスーパーで買い物をしているかのように見えるかもしれない。帰宅し、白玉団子を調理する瑞希の後ろ姿も生活的な躍動を見せることなく、キッチンの明かりだけが灯された暗い室内でただじっと静止し、二粒ばかりの団子が茹でられるのを冷たい表情でみつめるばかりだ。
 ところが、次の瞬間、ひとつのショットが事態の変化を告げる。団子をみつめる瑞希をアップショットで捉えたシネマスコープサイズの画面が、俄かに、そしてゆっくりと左方向へパンしはじめるのだ。キャメラは瑞希を画面の右端に追いやり、左側の空間が大きく映されるが、そこには誰もおらず、明かりの乏しい部屋の片隅だけが映されている。誰もおらず何もない空間への不気味なパンショット。その意味が理解できるのは続くショットである。何のきっかけもなく、瑞希は何かに気付いたかのように後ろを振り向く。すると、3年もの間失踪していた瑞希の夫、優介(浅野忠信)が前述のパンショットには誰もいなかった暗い部屋の片隅に靴を履いたまま立っていて、そればかりか自分はすでに死んでいると瑞希に告げもする。
 ここで驚くべきは、死んだ優介が亡霊となって不意に帰還したことそのものではない。自らが死者であると告げる夫を前にした瑞希が、ほとんど驚きも喜びもせず、恐怖の反応すら些かも見せないことなのだ。それはまるで、カール・テオドール・ドライヤーの『奇跡』で、死者の蘇生に立ち会った家族が一切騒ぎ立てることなく、ごく穏やかにその事態をただ祝福することの感動とよく似ている。瑞希もまた、優介が死者として帰還するという事態に立ち会いながら、その超常性を一切疑うことなく紛れもない現実として受け入れ、何よりまず靴を履いたまま部屋にいる優介をたしなめもしてしまうからだ。

「不思議な感じだったな。あっという間なんだよ。一歩踏み込んで、ことがはじまるともう引き返せない。あっぷあっぷしてるかと思うとぐいーと引き込まれて」
「水で、という気はしてたの」
「でも、全然苦しくなかった」
「そう、よかった」

 まるで他人事のように落ち着き払った調子で自らの死の瞬間を語ってみせる優介に対し、次第に語調を強め、声を震わせてゆく瑞希は、優介の死に苦しみがなかったことを祝福しさえし、冷たいままだったその表情にも生者としての人間的な熱量を取り戻していく。亡霊である優介が一瞬でも姿を消すと、安堵するどころかむしろ声を荒げ、再度の不在を阻止せんと努める。現世での存在が長続きしないことを示唆する優介を押し倒し、抱擁し、いつまでもここにいて、と強く訴えかけもする。
 つまり、これら一連のシーンで重要なのは、それまでの多くの黒沢作品では底なしの恐怖を準備した「濃密な死の気配」が、むしろここでは絶望のただなかに冷たく沈滞する人間の感情に生の熱量と愛の歓びを蘇生させる「予感」として機能することにあるのだ。映されない顔、不気味なパン、死者の出現、夫の死に方をなぜか確信していたこと。理由なく繰り出されるこれらの不穏な要素は、物語順序の論理に先立つ啓示として降臨する。そして、その不穏な啓示はかえってことごとく瑞希の生を肯定し、鼓舞することになるのである。
 微風に揺れるレースカーテン越しに流れ込んできた柔らかい陽光が、リビングルームの白い絨毯の上に倒れこんだ二人を包む。優介は、生前世話になった人たちに会うための旅に出るという。みっちゃん、俺と一緒に来ないか?

「長くなるの?」
「なる」

 

 

 2.「どこだかわからないけど、いかなくちゃならない」

 彩度の浅い画面の中でひときわ映えるオレンジ色のコートを着た男と、それとは対照的な緑色のスカートを履いた女が、神奈川県小田原市郊外のとある駅に降り立つ。電車の中では見知らぬひとりの少年から謎めいた視線を送られ、無言のまま両手を膝に置かれもした男と、それに戸惑いつつ寄り添っている女というこの「奇妙な二人組」は、いま、彼らよりも輪をかけて奇妙な一人の老人を探している。
 ここでもまた「予感」に導かれるように理由なく、オレンジ色のコートを翻して後ろを振り向いた優介は、バイクに乗って新聞を配達して回る島影(小松政夫)の姿を発見する。生前の優介が新聞配達員として働いた際、世話になっていた老人である。水色のヘルメットを被った島影は、二人を彼の仕事場兼住居に招き入れる。たったひとりでそこに暮らす島影との会話は絶妙に嚙み合わず、かつての瑞希同様彼もまたどこか現実的な生の感触が希薄に感じられる。島影に勧められるまま、そこに泊まり込むことになった二人は、夜になると寝支度をはじめる。顔を向き合わせることなく各々の作業に取り組みつつ話し続ける二人の会話がふと止まると、理由なき「予感」に二人は振り返り、顔を見合わせる。
 
「島影さんはね、俺と一緒なんだよ」
「えっ、どうして」
「わかるんだよ、大抵は」

 理由なき確信とともに、島影がすでに死んでおり、かつ、彼は自分が死んでいることに気付いていないと断言する優介を捉えたアップショットは、きっかけ無しにゆっくりと彼の左上方のドアへと移動してゆき、しばらくすると、ドアの曇りガラスの奥を島影らしき人物の不鮮明な姿が横切る。
 小津安二郎の『非常線の女』で、ギャングの岡譲二とその情婦である田中絹代の部屋へ警察が踏み込む直前に、それを予期したかのようにキャメラがドアの方へ前進移動するショットと相似形にあるともいえるこのショットは、それ自体で映画的緊張感を画面いっぱいに行きわたらせもするだろう。
 しかし、それにも増して重要なのはその後に続くショットだ。不穏な夜を経て、翌朝目覚めた瑞希が、まだ眠りから覚めていない優介の口元に顔を近づけてゆき、接吻するほどの近さに達したとき、唇ではなく耳を向けて彼の寝息を確かめ、安堵するというショットのことである。あの不穏な夜のショットが、この愛情の緊迫感と充実した光に満ちた幸福極まりないショットを「予感」したのである。
 自らの現世での存在が終わりを迎えようとしていることを「予感」する島影が「どこだかわからないけど、いかなくちゃならない」と語る言葉の通り、『岸辺の旅』のキャメラもまた、物語順序の論理を逸脱し、それに先立って運動を開始するのである。
 さらにここでは、それまで反復された、不穏が幸福を準備するという構造の逆転現象さえ起ってしまう。
 不穏な「予感」に打ちひしがれ、夜の公園で酔いつぶれた島影を優介がおんぶして家に連れ帰り(死者が死者を背負うという光景が、ただそれだけで素晴らしい)、瑞希もそれを手伝って暗い部屋のベッドに島影を降ろすと、完全に理由を欠いた光がゆっくりと壁一面に貼られた紙の花を照らし上げてゆく。
 優介の不意の帰還に瑞希が現実的な驚きを見せなかったように、ここでの二人も、それまで黒い影に覆われていた壁が唐突に明るくなってゆくという事態に一切反応することなく、ただ島影のライフワークの成果に圧倒されるばかりだ(この説明不在の光によって露わにされたあまりにも豊かな色彩に包まれつつ、唇をわずかに開きながら、言葉なしに紙の花をみつめる深津絵里の横顔のショットは、デジタルによって撮影されたあらゆるショットの中で最も美しいもののひとつと断言してよい。これほどの画面をデジタルで撮りえた映画作家など、世界を見渡しても『ヴィタリナ』のペドロ・コスタぐらいしか見当たるまい)。
 その翌朝、瑞希は、彼らがそれまで暮らしていた家が廃墟と化している様を目撃することとなる。島影の姿も見当たらない。島影がすでに死者でありつつそれに気づかなかったのと同様に、家もまたみずからが廃墟になっていることを知らなかったのだろう。壁に貼られた紙の花は色彩を失い、ぱらぱらと音をたてて崩れ落ちてゆく。
 ところで、荒れ果てた室内を映し出してゆく無人のフィックスショットの中のひとつに、割れた鏡のショットが紛れ込んでいて、小津安二郎における無人の部屋の鏡のショットがふと頭をよぎる。優介が瑞希との性的な接触を拒むことで『晩春』を連想させもするシーンの直後に置かれたこのショットと、シーン全体に濃密に貼りつく小津安二郎の気配は、続く第二の旅へ引き継がれることとなるだろう。

 

 

3.「もう一度最初から、優しくなめらかに、自分のテンポで」

 『岸辺の旅』で最も重要な箇所に思われるのは、優介がかつて働いていた中華料理屋の女将、神内フジエ(村岡希美)や、優介の生前の浮気相手であった松崎朋子(蒼井優)と瑞希が対話するシーンである。この二つの対話では、人物の正面にキャメラが置かれることで画面に尋常ならざる強度を漲らせるからだ。
 中華料理屋の手伝いに励む瑞希は、久々に宴会の予約が入ったので、フジエとともに長いこと使われておらず倉庫と化していた広間を片付けている。そこに一台のピアノを発見した瑞希は、彼女が幼いころピアノ教師から告げられたという言葉をフジエに話す。

「自分の音を聴きなさい。耳をすまして、注意してよく聴きなさい。どんなに嫌いでも、あなたの音が、あなたなんです」

 この台詞の箇所でまず最初の正面切り返しが現れる。にこやかな表情で瑞希が話すのと対照的に、それを聞いているフジエは表情を硬直させ、口を閉ざしたまま返事をせず、作業をする手も止まっている。この奇妙な切り返しの意味がわかるのはその後のシーンである。
 宴会の準備を続ける中、瑞希はふとピアノの上に置かれた楽譜を見つける。『天使の合唱』と題されたその楽譜を開くと、職業的な習慣からか瑞希はピアノの椅子に座り、その曲を弾きはじめる。すると、血相を変え走りよってきたフジエが瑞希の行動を厳しい口調で非難する。ちょっとなにやってんの、やめてよね、勝手にそういうの。誰もいない広間で少しピアノを弾いてみただけなのだから、この非難はあまりに唐突で理不尽に思えるのだが、瑞希は深く謝罪してみせる。本当にすみませんでした。こういう楽器って、持ち主の身体の一部みたいなところがありますから。瑞希の誠実な謝罪ぶりに冷静さを取り戻したフジエは、自らの過去を話しはじめる。

「私ね、8つも歳の離れた妹がいたの。私が18のときだったから、彼女は10歳。もともと腸が弱い子でね。痛い、痛いって苦しんで。あっという間に死んじゃったの。その楽譜の曲、『天使の合唱』、あの子ずいぶん気に入ったみたいで、勝手に一人で何度も練習して。ほんと、何度も、何度も、嫌になるくらい。ちょっと上手くなったかな、と思うと、また元のたどたどしいテンポに戻ったりして。すっかり耳にこびりついちゃったのよ。それでね、私、一度だけ彼女のこと、ひどくひっぱたいたことがあったの。ひとに聴かせないでよそんなピアノ、自分でわかるでしょ、ニ度と私のピアノに触らないで、って。10歳の子供に。どうかしてたんだ。いろいろ迷ってた時期でもあったしね。それからすぐ、妹は死んじゃった。だから私もピアノ辞めたの。で、親はそれ処分するって言ったんだけど、私はなぜか反対してね。ずっと実家の片隅に置いてあったのを、ここに越して引き取ったの。ほんと、どうでもいい話。でも、そんなどうでもいいことが、凧糸みたいにいっつも私の足に絡みついてて、歳とればとるほど、もう一歩も前に進めないって思うくらい頑丈に、私を過去に繋ぎ留めてるの。ほんの一瞬でいい。私、あのころに戻りたい。それで、心からまこちゃんに謝りたい。叩いてごめんね。ピアノ、弾きたかったんだよね。私がいつも弾いてるの、羨ましかったんだよね。お姉ちゃんのこと、許してね。また天国で会おうね。私はすっかりおばさんになってるけど、ちゃんと覚えててね。後悔してもしてもしきれなくって、あれからもう、30年も経ってしまった」

 瑞希と話していたはずのフジエは、いつのまにか、亡き妹に話しかけている。瑞希が子供にピアノを教えるときそうするように、フジエも腰を曲げ、かがんだ姿勢で、誰もいない空間へ向けて語りかける。陽光が落ちる。広間は暗闇に飲み込まれそうになる。
 独白を終え、姿勢を崩しうなだれたフジエの眼前に、赤いチェック柄のワンピースを着た幼いままの妹が現れる。フジエはピアノの方を振り返る。瑞希は優しい表情と声で見守るように、フジエの妹をピアノに招く。彼女は『天使の合唱』を弾きはじめるが、たどたどしいテンポで上手く弾けず、途中で断念してしまう。

「もう一度最初から、優しくなめらかに、自分のテンポで」

 瑞希の言葉を受け取った彼女は、ふたたび『天使の合唱』を弾く。生きているころにはそのように弾くことができなかっただろう完璧なテンポで。美しいピアノの音色が広間に響きわたる。レースカーテンが微風に揺れている。床に座り込んだままのフジエは、静止したまま妹の姿をみつめている。
 このときキャメラは、フジエの正面から全身を映したショットに続き、同方向からフジエの胸元の上をアップで捉える。フジエの瞳は涙で濡れ輝いている。あの「奇妙な切り返し」の正面ショットが、いまここで反復されているのだ。この正面ショットがいかに強靭なものか、言葉で説明することはできない。小津安二郎や、小津を敬愛し正面ショットを好んだマノエル・ド・オリヴェイラによる画面の強度にまで達している、とだけはかろうじていえるだろう。正面ショットのみならず、黒沢清は、長い独白を含む一連のシーンを、現代日本映画の環境においてはこの上ない最善のショット構成で捉えることに成功する。撮影監督の芦澤明子のキャメラワークと、フジエを演じる村岡希美の演技は、複雑な長回しも含む監督の要請に見事に応えている。2010年代日本映画の最高の達成がここに現前している。
 
 フジエの妹は、はじめて最後まで完璧に『天使の合唱』を弾き終えると、瑞希の方へ振り返り、少し照れているようなぎこちなさで笑みを浮かべ、姿を消してしまう。広間に陽光の明るさが戻る。小鳥のさえずりが聴こえる。
 
 続くシーンで展開される、優介の浮気相手であった松崎朋子と瑞希の対話は、わずか5分ほどのごく短いものであるにも関わらず、見る者に鮮烈な印象を残す。東京に帰るバスの中で、朋子からの葉書を瑞希のカバンの中にみつけた優介と痴話喧嘩を繰り広げる瑞希は、ついに激昂し、わだかまりを残し続けていた問題に対して感情を爆発させ、朋子に会いに行く決心を固める。
 東京では歯科医として働いていた優介の職場である病院のロビーで落ち合った瑞希と朋子の会話は、横移動しつつのマスターショットと肩ナメの切り返し、そして正面切り返しというシンプルな構成でありながら、成瀬巳喜男を彷彿とさせるような一人の男をめぐる二人の女の辛辣な台詞の応酬と、朋子を演じる蒼井優の悪魔的な演技によって一度見たら忘れられないほど強烈な印象を観客に叩きつけてみせる。とりわけ、あなたに夫婦関係の複雑さは理解できまい、と抗議する瑞希に対して、自分も結婚しておりさらには妊娠中の身でもあることを明かす朋子の正面ショットでは、不敵な微笑を湛えた彼女の瞳の奥にギラつくどす黒い何か、究極の深淵とも呼べそうな何かに思わず吸い込まれてしまいそうになるほどだ。たった5分ほどのシーンで、蒼井優は『岸辺の旅』の中で誰よりも印象に残る演技をみせつけるのである。

「きっとこれから、死ぬまで平凡な毎日が続くんでしょうね。でも、それ以上に何を求めることがあります?」

 計らずも深淵を覗き込んでしまい、朋子に一矢報いることもできぬまま家路につくが、そこに優介の姿はなく、またも生の熱量を失いかける瑞希は、突然目を見開き、慌ただしく白玉団子を作りだす。こうすればきっと優介はまた帰ってきてくれるに違いない。瑞希はテーブルに二粒の団子を用意し、それを凝視しつつただじっと座って待っている。すると突然、薄暗いキッチンのテーブルの上に団子があるだけの映像にオーケストラの劇伴が流れはじめる。クラリネットとファゴット、そしてフルートが、歓びを高めてゆくような、控えめなファンファーレのような旋律を告げるのだ。瑞希は歓喜に打ち震えるように瞳に涙をため、吐息を震わせ右斜め上方をみつめる。視線の先に優介が現れたのか。そうではない。瑞希の顔は後ろへ振り返る。しばらくの間ののちに、やはり靴を履いた足音で優介が奥の部屋からゆっくりと姿を現す。
 奇跡を予告するように劇伴が先回りして流れはじめるという例なら他にもあるだろう。しかし、ここで信じがたいのは、瑞希が劇伴を聴いているということだ。映画の中の人物が劇伴を聴いてしまうという、暴挙としか言いようのない事態がここで起こり、それによって瑞希は観客と同時に優介の再臨を「予感」するのである。
 この暴挙とよく似たショットを持つ映画をご存知か。ジョン・フォードの『駅馬車』である。あの名高いインディアンの奇襲の場面。壮絶な銃撃戦が続くが、応戦するための銃弾が尽きた。残るはたった一発のみ。多勢に無勢。万事休す。男は頭の皮を剥がれ、女はインディアンの嫁として連れ去られるだろう。絶望極まれり。せめてもの情けとして最後にできることといえば、残された銃弾で女をあの世に送ってやることぐらいしかあるまい。恐怖のあまり精神の均衡を失い、何やらぶつぶつ呟いている女の頭部に男は拳銃の先を向け、撃鉄を起こすが、インディアンの銃弾の方が一瞬早く男を貫く。男の手から拳銃がこぼれ落ちる。すると、どこからともなくラッパの音が鳴り響く。女は、その先には何もないはずの右斜め上方へと視線をやる

「ねえ、聴こえる?あの音が。ラッパよ、突撃ラッパよ!」

 女が精神の均衡を取り戻し、騎兵隊の救助の手が間一髪で間に合ったことに気づくこのショットで、「突撃ラッパ」は、音響の質的に戦闘の最中鳴り続けていた劇伴の展開の一部として聴こえるように処理されている。この時代の技術であっても、例えば劇伴の音をフェードアウトさせ、「突撃ラッパ」だけ鳴らすことで現実音として観客に分かり易く解釈させることも可能だったろう。しかしここでは、女の表情と台詞によってその音が意味するところを伝えるために、あえて劇伴と「突撃ラッパ」を区別させない音響の演出が実践されているのだ。つまり、『駅馬車』においても『岸辺の旅』同様に、映画の中の人物が半ば劇伴を聴いてしまっているのである。劇伴を聴き、その先には何もないはずの右斜め上方をみつめる二人の女。この類似を単なる偶然の一致として済ませてしまってはなるまい。

 

 

4.「また、会おうね」


 二人が最後に訪れる場所は、優介が私塾を開いていた山奥の村である。村で二人の住居を世話することになる快活な老人、星谷(柄本明)の孫である良太(藤野大輝)は、森の中にある夫婦滝を気に入っており、学校を抜け出してまで遊びに行くほどだという。ある日、良太の母親である薫(奥貫薫)が良太に弁当を持たせ忘れ、瑞希が届けることになる。学校にいないのなら、きっと滝です。よく行ってるみたいなんです。何が面白いんだか。
 瑞希が滝を訪れると、やはり良太がそこにいる。良太は弁当に関心を示さず、夫婦滝の伝承について話しはじめる。

「あそこの黒い部分見える?洞窟、あれね、死んだやつの通り道なの。あの世とつながってんの。ほんとだよ」
「そうか、あの人はここから来たんだ」

 瑞希は、優介が現世に帰還した謎について思いを馳せる。あくる日またも弁当を良太のもとに届けることになった瑞希は夫婦滝を再訪するが、そこにいたのは良太ではなく、亡くなったはずの瑞希の父親(首藤康之)であった。
 ここで想起させられるのは、ロバート・ゼメキスの『コンタクト』である。『コンタクト』でジョディ・フォスターが演じる地球外知的生命体探査プロジェクトの研究者もまた、瑞希同様早くに父親を失うが、彼女がついに遭遇した地球外知的生命体は亡き父の姿を借りて現れたのだった。瑞希が滝で父と再会するのに対し、『コンタクト』での遭遇は浜辺である。いずれも水辺を舞台として超越的なシーンが演じられているのである。さらにこの類似は、再開した私塾で、優介が光や宇宙をめぐる講義を行うことともつながるだろう。
 
「きっと宇宙ははじまったばかりなんです。みなさんは幸運にも、この誕生したばかりの若々しい宇宙に生まれることができました。これって凄いと思いませんか。計算によると、28億年後には、地球の温度が140度まで上がって人が住めなくなり、40億年後には銀河系とアンドロメダ銀河が衝突することになるんですが、まあこれはほんの些細な出来事なんでしょう。宇宙はこれで終わるんじゃない。ここからはじまるんです。我々はそのはじまりに立ち会っているんです。俺はそう考えるだけで、すごく感動します。生まれてきて本当に良かった。それがこの時代で、本当に幸運でした」

 一方『コンタクト』で地球外知的生命体と遭遇を果たしたものの、記録機器の異常によって証明が不可能となり、彼女の遭遇体験が妄想によるもので実際には宇宙にすら行っていないと政府委員会から糾弾されるジョディ・フォスターは、瞳に涙を湛えながら次のように抗弁する。

「経験したのは確かです。証明も説明もできません。けれど、私の全存在が事実だったと告げています。あの経験は私を変えました。宇宙のあの姿に、我々がいかに小さいかを教わりました。同時に我々がいかに貴重であるかも。我々はより大きなものの一部であり、決して孤独ではありません。そのことを伝えたいのです。そして、ほんの一瞬でもみんなに感じてもらいたい。あの畏敬の念と希望とを」

 『岸辺の旅』での講義と『コンタクト』での政府委員会の両者に共通するのは、それが単なる宇宙論ではなく、映画体験をめぐる挿話として読み替えることができる点である。
 映画見ることとは、1秒間に24コマもの速度で流れ去るフィルムを通過し、巨大なスクリーンに反射した光の絶え間ない蠢きを視て、また同時並行的に絶え間なく流れ続ける音響を聴きもするという人間の知覚の情報処理能力を遥かに逸脱した体験に他ならない。ひとりの人間の視覚と聴覚がそれらの全瞬間を認識し、記憶することなど不可能である。そのような本来的に不可能性を孕んだ個人の映画体験なるものを客観的に正当化し、証明し、説明することなど誰にもできはしない。光などしょせん質量0の、ほとんど無に等しい粒の集合体でしかなく、光から成る映画などしょせん無が織りなす単なる幻想でしかないと言われればそれまでだろう。
 しかし「私」という主観は確かにそれを「経験」した。人間の魂と、それを包み込む愛としか呼びようのない何かがそこには確かに映っていた。その事実を、いまこの瞬間も「私」の「全存在」が告げている。その有様に「我々がいかに小さいか」、「我々がいかに貴重であるか」、そして同時に我々がいかに「孤独」でないかも教わった。その「経験」は「私」という存在を変化させもした。
 宇宙の歴史と比較するまでもなく、この世に生まれてからたったの126年ほどしか経っていない映画は「これで終わる」のではなく「ここからはじまる」。いままさに「我々はそのはじまりに立ち会っている」。

 現世での存在の終わりを迎えつつある優介は、苦痛に蝕まれながら村での役目を果たすと、瑞希に支えられながら、とある浜辺を訪れる。そこはおそらくは優介の本来の身体が眠っている海なのだろう。これから「ここよりももっときれいな場所」に行くという優介に、行かないで、うちに帰ろう、と懇願する瑞希は、優介の身体を強く抱きしめる。空を舞う鳶の影が横切る。

「ちゃんと謝りたかった。でもどうやって謝ればいいのか、ずっとわからなかった」
「望みは叶ったよ」
「そうか」
「また、会おうね」
「うん」

 会話を終えると、優介の姿は消えた。瑞希は、その時が来たら燃やす約束だった100枚の祈願書に火をつけた。瑞希は振り返り、荷物を抱え歩き出した。キャメラはゆっくりと上昇し、入り江の岩や樹、海と空を映した。よく晴れた日だった。

M.K.へ

(スタッフT.M.)

 

 

(C)2015「岸辺の旅」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

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【バレンタイン特集】シネマの小さな恋人たち

2022/02/10

 今年も恋の季節がやってきた!!2/14はバレンタインデーということで、今回の「どれ観よ PICK UP」ではビデックスで配信中の恋愛映画をご紹介します!!大島渚黒沢清井口奈己是枝裕和岩井俊二といった日本映画史に足跡を残す作家に加え、現代日本映画で青春を撮らせたら右に出る者はいない三木孝浩、黒沢清や瀬々敬久作品での充実した助監督経験を自身の監督作に結実させる菊地健雄、立教大学と東京藝大大学院で映画を学んだ1991年生まれのいま最も次回作が期待される若手竹内里紗といった腕利き監督たちの要注目作品が揃っております。
 また洋画では、ジャック・ドワイヨンフィリップ・ガレルアッバス・キアロスタミといった巨匠たちはもちろん、現代アメリカ映画を騒がせるスパイク・ジョーンズデレク・シアンフランスジョシュ・サフディベニー・サフディ兄弟、トレイ・エドワード・シュルツ、さらにはアジア映画に新しい風を巻き起こすウェイ・ダーションデレク・ツァンリム・カーワイらも集結!!ドキュメンタリーでありながら紛れもない恋愛映画の傑作である『イングリッド・バーグマン~愛に生きた女優~』も特別枠でご用意しました!!
 恋愛中の方もそうでない方も、今月はビデックスで恋愛映画の世界に浸ってみては? (スタッフT.M.)

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(C)2014「ニシノユキヒコの恋と冒険」製作委員会(C)大島渚プロダクション(C)2015「岸辺の旅」製作委員会/COMME DES CINÉMAS(C)2009 業田良家,小学館,『空気人形』製作委員会(C) 2004 Rockwell Eyes・H&A Project(C)みちていく(C)2010年 浅野いにお・小学館/「ソラニン」製作委員会Copyright(C)2013 Untitled Rick Howard Company LLC. All Rights Reserved.(C) 2019 Flarsky Productions, LLC. All Rights Reserved.(C)2020 PS FILM PRODUCTION, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.(C)2019 A24 Distribution, LLC. All rights reserved.(C)2010 HAMILTON FILM PRODUCTIONS,LLC ALL RIGHTS RESERVED(C) 2011 Focus Features LLC. All Rights Reserved.(C)Mantaray Film AB. All rights reserved.(C) 2014 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS – CLOSE UP FILMS – ARTE FRANCE CINEMA(C) 2019 9375-5809 QUÉBEC INC a subsidiary of SONS OF MANUAL(C) British Broadcasting Corporation /Number 9 Films (Chesil) Limited 2017(C)The Bureau Film Company Limited, Channel Four Television Corporation and The British Film Institute 2014COPYRIGHT (C) 2014 BOVARY DISTRIBUTION LTD. ALL RIGHTS RESERVED.(C) 2014 – Albertine Productions – Cine-@ – Gaumont – Cinefrance 1888 – France 2 Cinema – British Film Institute(C) 2011 Productions Café de Flore inc. / Monkey Pack Films(C)Rizoma Films(C)1994 Ciby 2000 – Abbas Kiarostami(C)Lim Kah Wai / Duckbill Entertainment(C) 2014, Hardstyle, LLC. All Rights Reserved.(C)2008 ARS Film Production. All Rights Reserved.(C)2019 Shooting Pictures Ltd., China (Shenzhen) Wit Media. Co., Ltd., Tianjin XIRON Entertainment Co., Ltd., We Pictures Ltd., Kashi J.Q. Culture and Media Company Limited, The Alliance of Gods Pictures (Tianjin) Co., Ltd., Shanghai Alibaba Pictures Co., Ltd., Tianjin Maoyan Weying Media Co., Ltd., Lianray Pictures, Local Entertainment, Yunyan Pictures, Beijing Jin Yi Jia Yi Film Distribution Co., Ltd., Dadi Century (Beijing) Co., Ltd., Zhejiang Hengdian Films Co., Ltd., Fat Kids Production, Goodfellas Pictures Limited. ALL Rights reserved.(C)ARCHETYPE CREATIVE LTD all rights reserved(C) 2003 チルソクの夏製作委員会

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冬時間の映画たち

2021/12/17

 「映画の父」と呼ばれもするデヴィッド・ウォーク・グリフィスが『東への道』(1920)でリリアン・ギッシュを河上の流氷に横たわらせて以来、映画において冬という季節は、その苛酷な冷たさによってしか映し出すことのできない強度に支えられた美を私たち観客の瞳にもたらしてきました。『河内山宗俊』(1936)で原節子演じるお浪が、弟の過ちによって要求された途方もない額の借金を肩代わりするべく、ついに自ら身売りする決意を固める場面で、原節子の横顔を捉えたクロースアップの奥を、唐突に降り出した雪の粒が静かに輝きながらゆっくりと舞い落ちるという、おそらくは映画史上最も純粋な悲劇的美に満ちたショットを日本映画へ与えたのも冬のイメージだったのです。満遍なくあたりを照らし出す薄曇りの鈍い陽光や、見渡す限りの大地を覆い尽くす雪原の目が眩むほどの白さ、あるいは、漆黒の暗闇に包まれた人ひとり見当たらぬ真夜中に街灯が浮かび上がらせては消えてゆく雪の粒ひとつひとつが、何もかもから見放され絶望と孤独の苛酷な冷たさにうち震える人間の、それでもなお失われぬ尊厳に満ちた魂を、ただ静かに包み込むことで擁護する。そんな光景と出くわした孤独な観客のひとり──『カイロの紫のバラ』(1985)のミア・ファローや『マッチ工場の少女』(1990)のカティ・オウティネンのような──が、その一瞬だけは苛酷な現実の何もかもを忘れ、言葉では説明しようのない、魂の昂揚としか呼びようのない何かを全身で受け止め、いつのまにか、目の前の光景がいつまでも続くように願っている自分を不意に発見してしまうことの戸惑いと興奮に引き裂かれる。映画を見るということは、たとえばそんなことだったりするのではないでしょうか。
 というわけで、今回の「どれ観よ PICK UP」では、ビデックスで配信中の「冬」に関する映画をたっぷりとご紹介します!あなたにとって特別な「冬」がきっとどこかで待っているはず!!ぜひ探してみてください!!(スタッフT.M.)

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ヒューマンドラマ

邦画

戦争

ドキュメンタリー

クリスマス

SF、ファンタジー、サスペンス、ホラー、サバイバル

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【芸術の秋】アート×フィルム特集

2021/09/10

 

 「総合芸術」と呼ばれる映画は、音楽、文学、演劇、絵画、建築といった、これまで人類が生み出してきたあらゆる「芸術」を吸収することによって、巨大な発展を遂げてきました。いま私たちが当たり前のように受け取っている映画の映画らしさは、決して映画単独で生み出されたのではなく、人類の途方もない遺産の土台の上で構築され、成立してきた結果だともいえるでしょう。だからこそ映画を見るとき、私たちは常に古今東西あらゆる歴史に開かれた窓を覗いているのではないでしょうか。
 というわけで今回は、ビデックスJPで配信中の「芸術」に関する映画作品をたっぷりご紹介します。秋の静けさの中で、「芸術」の奥深さにどっぷり浸ってみては?(スタッフT.M.)
 
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フィクション×アート

ドキュメンタリー×アート

モノクロ作品

ファッション

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(C)Filmes Do Tejo II, Eddie Saeta S.A., Les Films De l’Apres-Midi,Mostra Internacional de Cinema 2010(C) Casa Azul Films – Ecran Noir Productions – 2018(C)2002 Hermitage Bridge Studio & Egoli Tossell Film AG(C) CG CINEMA / ARTE FRANCE CINEMA / VORTEX SUTRA / PLAYTIME(C) 2014 InterActiveCorp Films, LLC.(C) CONDOR FEATURES. Zurich / Switzerland. 1988(C)2017 Plattform Produktion AB / Societe Parisienne de Production / Essential Filmproduktion GmbH / Coproduction Office ApS(C)2010 Paranoid Pictures Film Company All Rights Reserved.(C)2010 Beginners Movie,LLC. All Rights Reserved.(C)2016 In Search of Fellini.LLC.All Right Reserved(C) 2014 Sea Urchin Films(C)TvZero(C) 2016 – G FILMS –PATHE – ORANGE STUDIO – FRANCE 2 CINEMA – UMEDIA – ALTER FILMS(C) 2014 EG Film Productions / Saga Film (C) Julian Lennon 2014. All rights reserved.(C)2009 – ALEPH MEDIA(C)Aparte Film, Sacrebleu Productions, Mind’s Meet(C)ELEFILM – SOPROFILMS – T.S.F. PRODUCTIONS – CINE 5 – 1988(C)B.B.B.(C)Hermitage Revealed c Foxtrot Hermitage Ltd. All Rights Reserved.(C)VICE MEDIA LLC AND STRAIGHT OP FILMS(C)2016 A&E Television Networks and RatPac Documentary Films, LLC. All Rights Reserved.(C)2019DiscoursFilm(C)2018 – 3D Produzioni and Nexo Digital – All rights reserved(C) 2014 Gallery Film LLC and Ideale Audience. All Rights Reserved.(C) 2017 Epicleff Media. All rights reserved.(C) 2016 Rivertime Entertainment Inc.(c ) 2018 pictures dept. All Rights Reserved(C) 戸山創作所(C) Roloff Beny / Courtesy of National Archives of Canada (C) Courtesy of the Peggy Gugggenheim Collection Archives, Venice(C)All M.C. Escher worksCopyright 2020 Osaka University of Arts. All Rights Reserved.(C) CDP/ARTE France/Bophana Production 2013-All rights reserved(C)DelangeProduction 2016(C) 1963 IMEC(C) 1966 IMEC(C) 1968 IMEC(C) 2016 Aamu Film Company Ltd(C)1960 STUDIOCANAL – Argos Films – Cineriz(C)大島渚プロダクション(C) 2019 ALL RIGHTS RESERVED SILVER SCREEN CESKCA TELEVIZE EDUARD & MILADA KUCERA DIRECTORY FILMS ROZHLAS A TELEVIZIA SLOVENSKA CERTICON GROUP INNOGY PUBRES RICHARD KAUCKY(C) Northsee Limited 2007(C)Pine District, LLC.(C)1964 F&F PRODUCTIONS, INC. ALL RIGHTS RESERVED.(C)1963 F&F PRODUCTIONS, INC. ALL RIGHTS RESERVED.(C)1957 MELANGE PRODUCTIONS LLC. ALL RIGHTS RESERVED.(C) 2014 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS – CLOSE UP FILMS – ARTE FRANCE CINEMA(C)2013 Guy Ferrandis / SBS Productions(C)Ciudad Lunar Producciones(C)O SOM E A FURIA,KOMPLIZEN FILM,GULLANE,SHELLAC SUD 2012(C)2005表現社(C)2013 Paramount Pictures. All Rights Reserved.(C)1974 KANOON(C) 1995 Twelve Gauge Productions Inc.(C)2017 JEONWONSA FILM CO. ALL RIGHTS RESERVED.(C)Copyright 2010 LES FILMS DU LENDEMAIN – LES FILMS DE PIERRE – FRANCE 3 CINEMA(C) 2014 MOJO ENTERTAINMENT LLC Authorised by The World Licence Holder Aram Designs Ltd.,(C) 2014 EG Film Productions / Saga Film (C) Julian Lennon 2014. All rights reserved.(C) 2014 WAW PICTURES All Rights Reserved.(C)2014 NEXT ENTERTAINMENT WORLD Inc. & YLAB Co.Ltd. / NOMAD FILM Co.Ltd. All Rights Reserved.(C)2013 BLACK DYNAMITE FILMS,TARKOVSPOP(C)The New York Times and First Thought Films.(C)2012 BG PRODUCTIONS,LLC. ALL RIGHTS RESERVED.(C) Bufo Ltd 2015(C)2014 Schatzi Productions/Filmhaus Films. All rights reserved(C) 2016 – G FILMS –PATHE – ORANGE STUDIO – FRANCE 2 CINEMA – UMEDIA – ALTER FILMS(C)2017 mint film office / AVROTROS(C) Raymi Hero Productions 2017(C) 2019 HIGH SEA PRODUCTION – THE INK CONNECTION – TAYDA FILM – SCOPE PICTURES – TRIBUS P FILMS — JOUR2FETE – CREAMINAL – CALESON – CADC(C)2016 CG Cinema – VORTEX SUTRA – DETAILFILM – SIRENA FILM – ARTE France CINEMA – ARTE Deutschland / WDR(C) ROOK FILMS FABRIC LTD, THE BRITISH FILM INSTITUTE and BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2018

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「本当のことを云おうか」 ショットの即物的、倒錯的快楽について アラン・ロブ=グリエ『不滅の女』

2021/07/09

 
 初脚本作である『去年マリエンバートで』(1961年)で世界的な成功を収めたアラン・ロブ=グリエは、1963年に初監督作となる『不滅の女』を製作します。その後ロブ=グリエは、ヌーヴォー・ロマンの代表的な作家でありながら生涯で10本もの映画を監督することになりますが、そのすべてが小説家の素人芸の域をはるかに超えた高度に斬新で充実した映画的達成を見せています。日本では長い間ほとんど見る機会のない幻の映画であったロブ=グリエ作品は、2018年のレトロスペクティブを皮切りにようやくその全貌を現わそうとしています。
 今回はそんな映画作家ロブ=グリエの記念すべき第一歩となった『不滅の女』にスタッフT.M.氏が挑みます!T.M.さん、準備はよろしいでしょうか?

 

 

 「その本当の事は、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なんだよ。蜜はそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?」                       
                              大江健三郎 『万延元年のフットボール』


 本当のことを云おうか、とアラン・ロブ=グリエは呟く。小説がそうであるように、映画にもまた物語など存在しない。小説であれば存在するのは白い紙の上で踊る黒い染みばかりだし、映画であればスクリーンの表面に浮かび上がる光と影の荒唐無稽な戯れが存在するだけだ。映画は1秒間に24回繰り返される虚構である。その身も蓋も無い即物的な現実を、ロブ=グリエは決してもっともらしい自然さで取り繕うことなく、あられもない姿のまま観客の前に放り出してみせる。
 1895年に誕生して以来、無数の物語という装飾に包み込まれ続けてきた映画からその虚飾を引き剥がし、もはや廃墟となりつつある構造そのものを露呈させること。その残酷極まりない遊戯を人はロブ=グリエの作品と呼ぶのである。
 『去年マリエンバートで』とほぼ同時期に製作されたロブ=グリエの処女作『不滅の女』におけるショットごとの断絶・飛躍によって時間軸を錯綜させてゆくという構造は『去年マリエンバートで』から一貫した発想によるものだといえるが、しかし『不滅の女』の作品としての印象は『去年マリエンバートで』とはまったく異なっているといえるだろう。まるでよく似た相貌の双子の兄弟が真逆の性格を持ち合わせているかのようでもある。おそらくは品行方正な兄に対する出来の悪い弟と一般的には見なされているであろう『不滅の女』の問題児ぶりを、ここではつぶさに観察してみようと思う。

 

 

 半ば瓦礫と化した姿で連なる建築物を捉えた移動ショットは、『去年マリエンバートで』の完璧に安定した超自然的な浮遊感とは真逆の、極めて現実的な荒々しさで見るものを困惑させる。観客にフレームの外の存在を上映時間の間すっかり忘却させるほどの透明な美で見るものを陶酔させたあの『去年マリエンバートで』の移動ショットが、ここでは、フレームの中にしか存在することのできないショットとしての自らの限界に苛立ちを隠そうとせず、フレームの外の現実へ向かって息せき切って逃れ去ろうとしている。建築物であることを辞めようとすればするほど、自らの建築物としての構造を露呈させてしまうという存在論的な限界に打ちひしがれているような風情の廃墟の群れに自らの似姿を見る『不滅の女』のファーストショットは、それが不可能であることを十分に理解しながら、なおも映画であることを辞めてしまいたいと欲望する悲愴な衝動に突き動かされれば突き動かされるほど、自らの映画としての構造そのものと向かい合わざるをえなくなる。
 しかし、この痛ましい逃避行も長くは続かない。突如鳴り響いたいかにも自動車の事故が発生したらしい衝撃音によってショットの持続が断ち切られるからだ。自動車事故という物語上の事件を示すにしては映像に特別工夫もなく、フィクションとしてのリアリティを著しく欠いた紋切り型の音響だけが鳴り響くとき、ロブ=グリエはこのファーストショットに対して、ショットはショットでしかないという身も蓋も無い現実を突き付けてみせる。
 続いて現れた女のクロースアップにしても、「寝そべって瞬きせず表情も変えずキャメラを見つめ続けろ」と演出されたであろう女優の身も蓋もない現実そのものが映し出されている。映画のショットである以上、一定時間持続する物語においてリアルな説得力を持つ一断片を形成し、観客との共犯関係を築くことを目指すのが一般的な意味での撮影なり演出なり編集というものであるが、ロブ=グリエはそういった製作者と観客による妥協の産物であるところの馴れ合いを拒否する。それどころかロブ=グリエは、映画撮影の現場に一度でも立ち会ったことがなければ知りえない撮影行為というものの不自然さそれ自体を、隠蔽することなくこれ見よがしに提示して、馴れ合いを求める観客の神経を逆撫でしようというのだ。

 そもそもがこのクロースアップの女もその女を求め続ける主人公の男も取り立てて美形であるということもなければ演技が達者であるわけでもなく、素人らしさがリアリズムの再構築に貢献するといったこともない。表情、話し方、歩き方、立ち止まり方といったあらゆる身振りは物語への貢献を避け、人物の感情を説明することもない。ロベール・ブレッソンやジャック・タチの場合とも印象の異なるその不自然さは、まるでただ監督にそうしろと言われたからそうしているといった感触の身も蓋もなさを失うことは一切ない。また、この二人の人物ばかりでなく、女と陰謀めいた関係がありそうでなぜかドーベルマンを何頭も連れたサングラスの男だったり、観光客相手にうさんくさい土産物を売りつける男だったり、主人公の男を地下の廃監獄へ導く少年だったりという『不滅の女』に登場するあらゆる人物がフィクション上の自然さを欠いたまま、不自然さばかりを遠慮なく発揮してみせる(ロブ=グリエの夫人であるカトリーヌ・ロブ=グリエだけがいくらか楽しそうに演じているようにみえるのが微笑ましい。その後いくつものロブ=グリエ作品に出演し、その素晴らしい存在感を見せているのだから、彼女はここで何かをつかんでしまったのかもしれない)。

 

 

 さらには、ショットのあり方についても『去年マリエンバートで』の場合と大きく異なる様相を呈している。『去年マリエンバートで』においては、ホテルの庭だったり、女の明るい部屋だったりという印象的な場所が何度も繰り返して現れるのだが、一度選択されたキャメラアングルが再び選択されることはなく、かつ、それぞれすべてが完璧な美しさを有しているので、そのあまりの贅沢さに恍惚とさせられる。しかし、『不滅の女』の場合はというと、冒頭でこれ見よがしに映し出された船上、草木が生い茂る庭園、海鳥が飛び交う砂浜、男が窓辺でブラインドを覗く部屋、そして寝そべった女の硬直したクロースアップといった印象的なショットの数々が、反復して現れるたびに同じアングルに留まっているのだ。
 物語はたしかに進行している。男は偶然出会った女にたしかに惹かれているし、女の不意の失踪に男はたしかに戸惑っていて、その失踪の秘密はきっとあのドーベルマン連れの男が握っているだろう、等々。台詞上それは理解できつつ、しかし、そういった展開を映し出すショット自体は、何度も反復し、それも同一のアングルで同じ場所を映し出す。といってもそれは、それぞれの場所における全ショットを一日で撮影したかのようなB級的な貧しき者の力がもたらす活劇性の魅力とも異なっている。『不滅の女』はただひたすら、贅沢なまでに即物的なのだ。主人公も脇役も、生きている女も死んだ女も、部屋も船上も浜辺も廃監獄もすべてが同質の即物性をもって代わる代わる画面上に現れては消えていく。そしてこれらのショットは、物語の進行がいよいよ核心に触れようとしていると観客に期待を抱かせた途端に、また核心から遠く離れた元の場所にそっくりそのまま収まってしまい、その瞬間、期待を裏切られた観客の目にはただ即物的な映像が映っているだけなのだが、それがこれほどまでに豊かに見えてしまうのは何故だろうか。
 凡庸な素人が適当に撮ってこういくものではない。徹底した緻密さで演出され、撮られ、編集されないかぎりこのタッチは生まれようがないのである。この技術の獲得に至った映画作家は、映画史を見渡してもロブ=グリエ一人しかいないだろう。彼は最後の作品に至るまで孤独にこの即物的な、としか言いようがない独特のタッチと戯れ続けたが、あくまで小説家として名を成した人間が何の経験もなく不意に撮り上げてしまった処女作の段階でそのタッチが達成されてしまったのは映画史上の永遠の謎である(ロブ=グリエは『去年マリエンバートで』の撮影現場に一度も訪れなかったらしい。アラン・レネの演出に影響されなかったことで、映画の撮影現場というものの純粋に身も蓋もない現実と無垢な心で向き合うことができ、そのことで何かに目覚めてしまったのではないか)。

 

 

 さて、最後にもう一つ本当のことを云おうか。
 私がそうであるように、延々と反復される期待と裏切りによって神経を逆撫でされたはずの観客の中には、激昂したり素知らぬ顔で画面から視線を逸らしてみせるどころか、その否定性の残酷さ、物語を否定する即物性に対して快楽を得てしまう者が確実に存在する。一般的には反映画的とみなされている瞬間のことごとくが、この上ない魅力で溢れた純粋に映画的な瞬間に感じられてしまう倒錯者のことである。そうなってしまったが最後、その観客はすでにロブ=グリエに導かれるまま、あの廃墟の暗い奥底にそびえたつ壁の鎖に視線を縛られ、『不滅の女』のあのクロースアップのように瞬きせず表情も変えず画面を見つめてしまっているに違いない。だからこそ、映画作家ロブ=グリエとその作品への愛を口にするときは注意したほうがよろしい。それはきっと、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なのだから。あなたはそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?

                                          (スタッフT.M.)




アラン・ロブ=グリエ監督作品6本、好評配信中!!

不滅の女
ヨーロッパ横断特急
嘘をつく男
エデン、その後
快楽の漸進的横滑り
囚われの美女

———————————————————————————————————————————————————
(C) 1963 IMEC

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亡霊は至るところに アラン・レネ『去年マリエンバートで』

2021/07/09

 


 「映画史上最も難解な映画」と評されたこともあるアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』。1959年に広島を舞台にした『二十四時間の情事』を監督し、長編第一作でありながら批評的成功を収めたレネは、ヌーヴェル・ヴァーグの最重要人物の一人とみなされるようになります。その後レネは1961年に長編第2作としてこの『去年マリエンバートで』を監督しますが、本作の脚本を務めたのは、なんとヌーヴォー・ロマンの代表的な小説家でもあるアラン・ロブ=グリエ。1957年の『嫉妬』と1959年の『迷路のなかで』ですでに新進気鋭の小説家として注目されていたロブ=グリエは、初めて映画脚本を手掛けたにもかかわらず、本作でアカデミー脚色賞にノミネートされ、作品としてもヴェネツィア国際映画祭で最高賞である金獅子賞を受賞します。
 そんな時代の寵児二人がタッグを組んだ映画史上の名作中の名作である『去年マリエンバートで』を、スタッフT.M.氏はどのように見たのでしょうか。最後までごゆっくりお楽しみください。
 

 

 

「観客が最も自問しがちな疑問は、以下のようなものだ。この男と女は本当に去年マリエンバートで恋に落ちたのか?若い女は覚えていて、単にあのハンサムな見知らぬ男のことを知らないふりをしているだけなのか?それとも彼女は自分たちの間に生じたことを、本当にすっかり忘れてしまっているのか?等々。一点だけ再確認しておこう。そんな疑問には何の意味もない」

「そのフォルムにこそ、映画の真の内容を求めねばならない」  
                                       アラン・ロブ=グリエ


 いま、微かな声が聴こえはじめ、それは次第に私たちの耳にもはっきりと聴きとれるほど声量を増してゆくのだが、いつの間にかまた私たちの耳から遠ざかっていってしまう。

 誰もいない広間に通じる
 ひと昔前の装飾が重苦しい
 人の足音も
 分厚い絨毯に吸い込まれてしまう
 あまりの分厚さに
 何の音も届かない
 歩く人の耳にも…
 廊下に沿って
 広間や回廊を横切る
 ひと昔前の
 豪華なホテルはバロック調で
 暗く果てしない廊下が続く
 静かで人気はなく
 暗く冷たい装飾
 木工や漆喰 羽目板 大理石
 黒ガラス 黒く描かれた絵
 円柱
 彫刻の施された扉が続き
 回廊や建物を横切る廊下は
 またも誰もいない広間に通じる

 ファーストショットが現れる以前に聴こえてくるその声は、はっきりと聴きとれる瞬間でも明らかに抑揚と感情を欠いており、その声が本来放たれる起因となったはずの肉体自身の存在すらも否定するかのような、声そのものの孤独のうちで鳴り響いている。その沈黙に限りなく近い饒舌は、まるで一人の亡霊が、遥か遠い昔の出来事の、もういまはすっかり朧げになってしまった記憶を蘇らせるべく、すでに失われた彼の瞳にかつて確かに映ったはずの光景の、いまもなお辛うじて残っている印象を反芻しているかのようだ。

 そしていま、もう一人の亡霊が現れる。映像と呼ばれるその亡霊は唐突に姿を見せたかと思うと、まるで重力の存在を否定するかのような透明極まりない流麗さであたりを動き回り、豪華なホテルらしい建築物の全体像を示すことなく天井や壁の装飾、鏡、廊下といった細部ばかりをゆっくりと捉えてゆく。その映像は、また朧げに鳴り響きはじめた声が語る情景に沿うかのような素振りを一瞬見せはするのだが、映像がゆっくりと移動してゆく方向は、声が指し示す情景から次第に離れていってしまう。映像は映像で、映像そのものの孤独のうちで浮遊し、傍らで鳴り響く声との蜜月を拒否するかのように振る舞う。
 肉体から切り離された声と、全体から切り離された映像。それらは互いに接近と離別を繰り返しながら、それぞれの不確かな記憶の中にあるはずの真実を、ある時は冷静に、またある時は興奮気味に暴き立てようと試みる。
 そのようにしていま不意に私たちの眼前に姿を現した『去年マリエンバートで』の声と映像のフォルムは、これからある女と男の記憶をめぐる物語を演じようとしている。では、その物語はいったいいかなる様相を呈することになるのか。

 

  

 いま、一人の女が誰もいない広間に立っている。左手を胸元に当て、微動だにせず立ち尽くすその姿は、現実に生きる一人の女優の自然な存在感の美というより、まるで若くして唐突に訪れた死に当の本人が気づくことなく、彼女が最も美しかった瞬間が永遠に固定されたままでいるかのような、極めて不自然で冷酷な美の輝きを放っている。そして、誰もいないはずの広間に立ったこの女を捉える映像が不意にパンすると、そこにいないはずの男が傍らに立っていることがわかる。この男もまた生者が本来湛えるはずの表情の豊かさ一切を欠いたまま硬直した姿勢で女に語りかけるのだが、ファーストショット以前から聴こえていたあの声が男の口元と同期するとき、孤独な亡霊のような声がついにみつけた自らの起因となりうる男の肉体もまた、すでにこの世に属するものではないのかもしれない、と私たちは想像してしまう。

 

 

 「あなたは変わらない。放心した瞳も、微笑も、唐突な笑いも。さしのべる腕も、子供か、木の枝かを避けてゆっくり肩のくぼみに。その香水の香りも同じ。憶えていますか?フレデリクスバートの庭園を。あなたは少しからだをかしげ、石の手すりにゆったりと手をのせて。庭の中央の道をながめるあなたに歩み寄り、私は少し遠くからあなたを見つめた。砂利を踏む私の足音にようやく気づき、あなたは振り向いた。」

 「それは私ではありません。人違いです」

 「大好きです。前から大好きです。あなたの笑い声が」

 男は女に自らの記憶を突き付け、女は何も覚えていないと言う。ここで重要なのは、この二人のどちらの記憶が正しいのか、といったようなことではない。
 女と男それぞれ固有の記憶同士が衝突することでいくつもの記憶が新たに生み出され、女は女で、男は男で、分裂した記憶の数ごとにその姿を増殖させてゆく様が、映画のフォルム自体の衝突と分裂、増殖によって示されることこそが重要なのだ。
 実際、二人が出会ったかもしれない場所はフレデリクスバートからカールシュタットへ、カールシュタットからマリエンバートへ、マリエンバートからバーデン・サルサへ、そしてまたこの誰もいない広間へと分裂し、増殖してゆく。昼の直後に夜、白い衣装の直後に黒い衣装、暗いバーのカウンターの直後に明るい部屋、静止の直後にダンス、殺された直後に生きている、といった具合に接続詞を欠いたショットの連鎖は、一つ一つのショットを物語上の直線的な関係から独立させることで、それぞれのショットに固有の生を与える。そのとき私たちは、まるで合わせ鏡の前に立った一人の亡霊のいくつもの虚像が当の亡霊本人から独立し、虚像の数ごとの生を新たに生きはじめる瞬間に立ち会ってしまったかのような深い戦慄を覚えずにはいられないのである。

 

 

 『去年マリエンバートで』の冷酷な美しさとはつまり、決して台詞によって語られる女と男の相反する記憶同士のすれ違いだったり、幾重にも錯綜した時間軸が見せる迷宮じみた謎自体によるものではなく、亡霊かもしれないフォルムと亡霊かもしれない男女が遭遇することによって生み出される死のイメージ同士が、上映時間のはじまりから終わりまでの間、不断に生起し続ける現在においてのみ、途方もない緻密さで衝突と分裂、増殖を繰り返し、それ自体が純粋に映画的な生の力へと反転するという力学によるものなのだ。
 映画とは、1秒間に24回繰り返される生と死である。誕生したその瞬間から否応なく自身の死と向き合わざるをえなかった映画という芸術の原理と、かつてこれほど真剣に向き合った作品が存在しただろうか。
 その真剣さを受け止めながら注意深く画面を見つめる観客にとって94分という上映時間は、「ちょうど夢の中でわたしたちが、ある宿命的な命令に操られていて、その命令にどんなわずかな変更を願っても、それから逃れようとしてもむだであると感じるときのように」(ロブ=グリエ)、映画のフォルムが演じるいくつもの生と死の物語によって視線を囚われながら、あっけなく過ぎ去っていくだろう。

 

 

 そしていま、ショットごとの生を生き直し終えた女と男の亡霊は、この合わせ鏡の迷宮から旅立とうとしている。いくつもの虚像に分裂し増殖した中のどれとも見分けのつくはずのない一人の女と一人の男は、それぞれがまた亡霊となり、合わせ鏡の前に立つときを待つことになるのだろうが、作品という固有のフォルムが上映時間ほどの生を生き終えたいま、女も男も、あのバロック調の豪華なホテルも、さらにはそれらのあらゆる細部までもが、私たちの視界から唐突に、そしてあっけなく消え失せて行ってしまった。
                                         (スタッフT.M.)

 
 
作家主義!フランス映画の偉大な傑作の数々をどうぞ

愛して飲んで歌って (アラン・レネ)
ピクニック デジタルリマスター版 (ジャン・ルノワール)
顔たち、ところどころ (アニエス・ヴァルダ)
ジェラシー (フィリップ・ガレル)
パリ、恋人たちの影 (フィリップ・ガレル)
ラブバトル (ジャック・ドワイヨン)
ハイ・ライフ (クレール・ドゥニ)
パーソナル・ショッパー (オリヴィエ・アサイヤス)
アクトレス 女たちの舞台 (オリヴィエ・アサイヤス)
冬時間のパリ (オリヴィエ・アサイヤス)
未来よ こんにちは (ミア・ハンセン=ラブ)
ダブル・サスペクツ (アルノー・デプレシャン)
あの頃エッフェル塔の下で (アルノー・デプレシャン)
グッバイ、サマー (ミシェル・ゴンドリー)
カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇 (ブリュノ・デュモン)
見えない太陽 (アンドレ・テシネ)
読書する女 (ミシェル・ドヴィル)
あるメイドの密かな欲望 (ブノワ・ジャコー)
エヴァ (ブノワ・ジャコー)
アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲(プレリュード) (クロード・ルルーシュ)
男と女 人生最良の日々 (クロード・ルルーシュ)
美しい絵の崩壊 (アンヌ・フォンテーヌ)
ボヴァリー夫人とパン屋 (アンヌ・フォンテーヌ)
ミス・ブルターニュの恋 (エマニュエル・ベルコ)
グランド・セントラル (レベッカ・ズロトヴスキ)
プラネタリウム (レベッカ・ズロトヴスキ)
わがままなヴァカンス 裸の女神 (レベッカ・ズロトヴスキ)


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(C)1960 STUDIOCANAL – Argos Films – Cineriz

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『必殺!恐竜神父』は確実に存在する

2021/06/04

神父、恐竜に変身す。
デタラメ忍者にアーメンダブツ!

 

 あのコンマビジョンが贈る、低予算作品ながらも公開直後から口コミが広がり配信サイト(Amazon Prime)で全米1位を記録した超話題作!!
 今回は、Z級な印象に満ち溢れつつそれを超えた魅力が全編を覆い尽くす現代アメリカ映画の新たな傑作(と、弊社スタッフT.M.氏が騒いでいる)、必殺!恐竜神父についてご紹介します!!これを読んだらあなたも必殺!恐竜神父の虜になること間違いなし!?

 

 断言しよう。『必殺!恐竜神父』は紛れもない傑作である。そればかりか『必殺!恐竜神父』には映画史における新時代の幕開けとなりうるほどの潜在的な力が確実に備わっている。126年前にリュミエール兄弟が映画を発明したという歴史的事実の傍らで、しかしこの作品とともに今まさに映画は生まれようとしているのだと積極的に誤解したくなるほどの瑞々しい魅力が『必殺!恐竜神父』には横溢しているのである(少なくとも私にとっては)。今回はそんな『必殺!恐竜神父』の大いなる魅力に迫ってみようと思う。

  

1.『必殺!恐竜神父』前史

 そもそも『必殺!恐竜神父』(原題:The Velocipastor)は「存在しない映画」の予告編として生み出された。
 ロバート・ロドリゲスとクエンティン・タランティーノによる『グラインドハウス』(2007)をご記憶の方も多いはずだ。これは『プラネット・テラー』(ロドリゲス監督)と『デス・プルーフ』(タランティーノ監督)の本編2本立ての前後・合間に、エドガー・ライトやイーライ・ロス、ロブ・ゾンビらが製作した「存在しない映画」のフェイク予告編が上映されるという企画であった。
 当時学生であったブレンダン・スティアーはこの『グラインドハウス』に影響を受け、自らも「存在しない映画」の予告編を製作しようと決意する。そして2011年、スティアーは『The Velocipastor』のフェイク予告編を完成させるのだが、ここで注目すべきはこれが16mmフィルムによって撮影されたという事実だ。それだけでなくスティアーはこの映像を『グラインドハウス』により近づけるために、撮影後のフィルムを200度のオーブンで10分間焼き、その後窓のない浴室でフィルムに傷をつけまくったという。一歩間違えれば高価なフィルムがすべて現像不可になってしまうリスクを恐れず、ただただある種の質感を得るためだけに無謀な賭けに出るスティアーの映画的野心は、当時すでに単なる凡庸な映画学生の域を遥かに超えていたのだ。(なお、この『The Velocipastor』のフェイク予告編は2021年5月31日現在、動画投稿サイト「Vimeo」のスティアー本人のアカウントで公開されているのでぜひご覧いただきたい。)
 その後スティアーは、『グラインドハウス』においてフェイク予告編であった『マチェーテ』や『ホーボー・ウィズ・ショットガン』が本編化されたのに倣うように『必殺!恐竜神父』の本編化を実現することになるが、このスティアーの映画への飽くなき野心と執念はいったいどのような成果をもたらしたのか。 

   

   

2. 編集の精度

 『必殺!恐竜神父』の本編化にあたって用意された製作費はたったの35,000ドルであった。アメリカ映画として1本の商業娯楽長編作品を撮るにはあまりにも少なすぎる予算だが、スティアーはこういった状況に置かれた監督が陥りがちな自堕落な諦念とははっきりと背を向ける。予算がないということは、まともな機材、スター俳優、余裕ある撮影期間のいずれからも見放されるということを意味するが、スティアーはそこでショットの質の悪さをそのまま投げ出し、観客から同情と侮蔑の入り混じった笑いを誘うことを拒否するのだ。
 ドルから遠く離れた場所でできるただ一つのこと、それは徹底した編集である。もちろん編集によって画面を救うには才能が必要だが、スティアーは類まれな編集センスに恵まれており、本人にもその自覚があったはずだ。この負け戦を生き延びるための能力が自分には備わっているという確信が、その画面から伝わってくるのである。かつてジャン=リュック・ゴダールは「撮影は編集のポストプロダクションだ」という名言を放った。撮影前に編集の完成形を高精度で想像しうる能力はあらゆる優れた映画作家に備わっているが、スティアーの場合も例外ではない。

 その例として、まずファーストショットを見てみよう。
 「Rated X by an all-Christian jury」(「成人指定作品 キリスト教会の裁定により」)という文が黒画面に浮き上がり、続いて、教会にてヨブ記の一説を唱える主人公ダグが映し出されるのだが、ダグの背後の壁にかかる十字架に当てられた照明がXの形になっているのである。相似形のイメージを並置させること。これはアメリカ映画の古典的モンタージュの技法である。この導入部分からわかる通り、題材やジャンルとは関係なく、スティアーの画面は徹底した律儀さでつながれてゆく。
 その徹底した律義さは、題材やジャンルには奉仕しまいとすればするほど被写体そのものの性質(チープさ)を際立たせ、ギャグの効果を最大限に引き出す。
 例えば、夜の公園でヒロインの娼婦キャロルを襲う暴漢を恐竜化したダグが喰い殺すシーンで選択された編集技法は、トビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』の冒頭で腐乱死体の足や手、顔がストロボの一瞬の閃光の中で映し出されてゆくシーンから採られている。恐竜の全体像は示されず、恐竜の顔や手の一部分のみが暴漢の発砲による閃光の中で次々と映し出されるのだ。編集それ自体が徹底的に律儀であるからこそ、たとえほんの一部分であっても確実にチープである印象を免れることのない恐竜の着ぐるみの造形が際立ち、画面をこの上ないギャグとして炸裂させるに至るのである。
 ここで挙げた徹底した律義さとギャグとの共闘関係はほんの一例にすぎない。編集とは、題材やジャンルとは関係なしに、撮られた映像のここしかないという一点を探り当てることだ。そしてその一点が見つかりさえすれば、後は自ずと情感が立ち上がる。このスティアーの編集の論理は『必殺!恐竜神父』の全体を背骨のように貫いてゆくのだから、観客はその確かな手捌きをしかと注視しないではいられないし、そうしていると不意打ちのようにして襲いかかってくるギャグの連鎖に笑いを堪えることもできないのだ。
 ところで、それとは別にこの作品にはもう一つの側面があるということにお気づきだろうか?

    

   

3. ラブシーンの精度

 スティアーは2014年に『Rules』という4分の短編映画を監督している。思春期の男女が、ある夏の日クローゼットの中に二人きりで閉じこもり、互いにまだ慣れない秘め事を不器用に実践してみるひとときの出来事を描いた佳作である。恐竜ともギャグとも無縁のこの小さな恋愛劇は、スティアーが『グラインドハウス』的な作家性に留まらないもう一つの才能を確実に有していることを証明するに相応しい瑞々しさで溢れている。クローゼットの隙間から漏れる光が、不器用に唇を重ね合わせる二人の姿を祝福するように柔らかく包み込み、その一部始終をスティアーは的確な引きと寄りの編集によって間延びすることのない鮮烈な瞬間として切り取る。まるで1920年代のサイレント映画における最良のラブシーンを目の当たりにしているかのような錯覚に陥ってしまいかねないほど、この画面は充実しきっているのだ。続く屋外のシーンでも、木に登る女性の足を男性が見つめるというほとんどエリック・ロメールの『クレールの膝』から想を得たとしか思えない画面まで登場してしまうのだから、スティアーの映画的教養の幅広さはただごとではないし、それをいかに不利な条件の中でも的確に実現してみせてしまう彼の映画的才能の深さは底が見えないほど深い。(なお、この『Rules』は2021年5月31日現在、YouTubeのスティアー本人のアカウントで公開されているのでぜひご覧いただきたい。)
 
 そして、ここでの極めて精度の高いラブシーンはなんと『必殺!恐竜神父』にも引き継がれているのだ。それがこの作品における「もう一つの側面」である。
 娼婦であるキャロルを暴力的に搾取する最悪のポン引き、フランキー・マーメイド(名前の由来は「ビッチの海で泳ぐから」)。自らの両親をこのフランキーが殺害したことを教会の懺悔室で知ったダグは、怒りのあまり我を忘れ恐竜化し、その場でフランキーの喉を爪(鋭利には見えない)で切り裂き殺してしまう。聖職者という身分でありながら殺人を犯してしまったことに動揺するダグは救いを求めるべくキャロルの家を訪れ、自らの行為が正当であったかどうか興奮気味に語りはじめる。

 「いいか、これは善行だ。人助けだ。真の善を為す。そうだろ?これは二人の秘密だ」
 「ええ、そうね。神様の事はよく知らないけど」
 「俺も恐竜はよく知らない」

 互いの事をよくは知らない(神や恐竜の事も)までも、互いが惹かれあっているという予感を二人が確かに共有しているかのような空気がこのシーンには満ちている。殺人を犯した言い訳を述べ立てるダグと、やや狼狽しつつ懸命に彼を擁護するキャロルの距離は心理的にも空間的にも徐々に縮まってゆく。ダグが殺した男が自らを搾取するあのフランキーであったことを知ったキャロルは、縮まりそうで縮まりきらない距離をこの瞬間一挙に乗り越えるように、ダグへ不意の抱擁を寄せる。レースカーテンによって柔らかく拡散した真昼の光が、感謝と愛の入り混じったキャロルの横顔にこの上なく透明な輝きをもたらす。

 「ありがとう」
 「悪人を始末する」
 「最悪のヤツをね」

 このシーンではじめて一つのフレームに収まった二人は、フランク・ボゼージのサイレント映画でよく見た光景とそっくりな構図で、互いを愛と信頼に満ちたまなざしで見つめ合う。神も恐竜も超えた二人だけの完全な調和の光の中で、無用な言葉を放棄するように沈黙が訪れる。そしてその充実しきった沈黙は、二人の調和が精神的にも身体的にも頂点に達したことを高らかに宣言するかのような完璧なハイタッチによって断ち切られる。
 この一連のシーンでのキャメラと照明と役者と編集は、まるでフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのダンスのようにそれぞれが完璧な呼吸で互いと調和し、一つの感情を紡ぎだす。その果てのあの「お見事!」とつい声を上げてしまいたくなるほど素晴らしいハイタッチは、ロバート・アルドリッチの『クワイヤ・ボーイズ』のラストショット以来見ることがなかったというほどの出来栄えではなかろうか。実際、そこから続くシーンの見事な分割画面の処理を見ると、スティアーが、分割画面の名手であったアルドリッチから確信的にそのスタイルを受け継いでいるのが誤解ではないということが分かる(分割画面の中、教会でキャロルがパンを受肉する横顔の映像と悪人を喰い殺す恐竜の映像がモンタージュされるのだが、これがまた素晴らしい)。

 その後ダグは、最近どうも様子のおかしい彼を心配する心優しい先輩牧師スチュアート(スティアーの実父であるダニエル・スティアーが演じている)によって(なぜか)黒魔術の儀式に連れてゆかれる。その儀式の中で恐竜化の能力を呼び起こされてしまったダグは、あろうことかスチュアートの片目を抉りとってしまう。(この事件がアイパッチへの伏線となっている!)
 両親を亡くしたダグにとってほとんど親代わりの存在であったスチュアートを傷つけてしまったことで絶望と恐怖に打ちひしがれたダグは、またも救いを求めるべくキャロルの家を訪れる。二人は世界の中で孤立してしまった。もはやこの世での理解者は互いの存在だけという事実が明らかになった悲しい夜に、ついに二人が肌を重ね合わせるシーンのあの見事な美しさについては語らずにおこう。サイケデリックな光の中でゆっくりと長い髪をほどきシャツのボタンを外してゆくキャロルの正面クロースアップの艶めかしい美…いや、もう本当にやめておこう。ただ、スティアーは作品として選択された題材やジャンルとは無縁に、恋愛シーンにおいてとりわけ才能を発揮する優れたメロドラマ作家であるということだけは判っていただきたいのだ。

   

4. 「お次は何を?」

 物語の最後、数々の困難と闘争を乗り越え、もう一つの生を歩み始めたダグは、傍らに寄り添い続けるキャロルの問いかけにこう答える。

 「あなた賞金首になってたわよ。お次は何を?」
 「最善を尽くす」

 一本の現代映画の台詞としてはあまりにも単純すぎるこの言葉が、それでもなおこの上なく新鮮に、そして感動的に響くのは、どのような過酷な条件にあっても自らが愛してきた映画史を見失うことなく可能な限りの手段を駆使して「最善」の「映画」を作り続けてきたスティアー監督自身の言葉のように思えてならないからだ。「映画」の歴史と向き合い優れた作品を参照することでしか真に新しい「現代映画」を生み出すことはできない。これもまた映画史上の紛れもない事実である。
 126年前に発明され、数々の困難と闘争を乗り越えてきた「映画」は、6600万年前に絶滅した恐竜のように、もはや終焉を迎えようとしつつあるのだろうか?
 「No」とスティアーは答えるだろう。「映画」はまだ生まれてさえいない。どのような環境にあっても監督が正しく「最善を尽くす」とき「映画」は何度でもその産声を上げ、その声は歓喜の歌となって新しい時代の幕開けを告げるのだ。『必殺!恐竜神父』はまだその産声を上げるには至っていない小さな作品かもしれない。鈍感で無知な世界はまだスティアーの真の才能に驚くに至っていない。しかし、その予感は確実に訪れている。少なくとも私は、スティアーには新しい波で世界を飲み込む才能があると確信しているのだから、彼にこう問いかけることにしよう。
 「監督、お次は何を?」

   

   

ビデックスJPで配信中のその他のコンマビジョン作品もぜひ!!

バッドアス・モンスター・キラー
インスタ・オブ・ザ・デッド
ランドシャーク/丘ジョーズの逆襲
スノーシャーク / 悪魔のフカヒレ
ウィジャ・シャーク /霊界サメ大戦
ヴィシャス/殺し屋はストリッパー
SNS 殺人動画配信中
カフカ「変身」
ウォー・イズ・オーバー?
ライセンス・トゥ・キル/殺しのライセンス
レスティング・プレイス/安息の地
希望の翼/最後に帰る場所
別れの時/ホームタウン・イン・ジョージア
デコレーション・デイ/30年目の勲章
リトル・ガール・ロスト/娘よ
エスケープ・フロム・タウン/どこか遠くへ
悪魔のサンタクロース/惨殺の斧
ビキニ・キラー/真夏のくい込み殺人
キャサリン・ハイグルの血まみれのドレス
悪魔のサンタクロース2/鮮血のメリークリスマス
ルーム・アップステアーズ/空き部屋あります

まだまだ他にもあるぞ!Z級な映画の数々をぜひ!!思わぬ掘り出し物があるかも…!?

ジュラシック・シャーク
シャークネード ラスト・チェーンソー
シャークネード ワールドタイフーン
恐怖!キノコ男
怪奇!兎男


(スタッフT.M.)
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(C) 2018 Brendan Steere. All rights reserved.

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桜桃の味、あるいは「不穏な震え」のゆくえ

2021/05/14

 
 2016年に惜しくも逝去されたイランを代表する巨匠、アッバス・キアロスタミ監督。これまで彼が生み出したいくつもの傑作は、イランに留まることなく世界中の映画ファンの視線を虜にしてきました。2012年には『ライク・サムワン・イン・ラブ』を日本で製作し、小津安二郎からの影響も公言してきたキアロスタミ監督の作品は、その多くがイランを舞台にしながらも、日本人の観客にとってもどこか懐かしいような感覚をもたらします。
 今回は、ビデックスJPで配信中のキアロスタミ監督作品7本の中から、1997年の第50回カンヌ国際映画祭にて最高賞であるパルム・ドールを受賞した不朽の名作『桜桃の味』についてご紹介します。

ファーストショットの不穏な震え

 自動車を運転する人物を助手席の側から捉えたショットといえばいかにもキアロスタミ的といえるかもしれない。実際、市街地の雑踏をゆっくりと前進するレンジローバーの運転席の人物を真横からのバストショットで映す『桜桃の味』(1997)のファーストショットも、『そして人生はつづく』(1992)と『オリーブの林をぬけて』(1994)でキアロスタミが実践したあの印象的なキャメラポジションを反復しているかのようにみえる。しかしここでの事態はそれほど単純ではない。『桜桃の味』のファーストショットで捉えられた男の瞳には、絶望を尽くした者にしか到達しえない穏やかさのような、時間の止まった静かな暗闇のような何かが満ちているからである。キアロスタミの前二作の人物らにはみられなかったこの深い暗闇は、ゆっくりと前進する自動車の窓外からときおり流れ込む柔らかな陽光によって救われることもなく、却っていっそう彼の絶望の輪郭を際立たせてゆくようにみえる。
 かつては「素朴な」市井の人々の生における希望を無条件で擁護するための役割を担っていたはずのキアロスタミ独特の光と運動が、ここでは暗いぬかるみの中で重い岩のように身動きのとれなくなった精神との断絶の境で鈍い摩擦を生じさせ、画面を「かつてない不穏な震え」で満たす。
 このたった一つのショットによって、観客はこの映画のゆっくりと前進する方向が前二作とは明らかに違うことを知覚し、「かつてない不穏な震え」を背筋に感じながら事態の推移を見守ることになるのを覚悟するだろう。
 

 

奇妙な「約束」

 長編デビュー作『トラベラー』(1974)で、サッカーの試合を観戦するべく奔走する少年を描いて以来のキアロスタミのスタイルを踏襲するように、『桜桃の味』の主人公の男もあるたった一つの目的を果たそうとしている。
 市街地の雑踏を抜け郊外に至り、丘陵地帯の「ジグザグ道」を走る男は幾人かの人物に声をかけてゆく。男は何か口実をつけては相手を車の助手席に座らせることに成功すると、決まってある場所に連れてゆき、ある「約束」をもちかける。その「約束」とはこうだ。
 「穴が見えるだろ?あの穴だ。いいか、よく聞いて。朝6時にここで僕の名を2度呼べ。僕が返事をしたら手をとって穴から出せ。車のダッシュボードに20万ある。それを君にあげる。返事がなかったらシャベルで20杯土をかけてくれ。金は君のものだ。」
 この奇妙な仕事を依頼され、男がもたらす「不穏な震え」の正体の片鱗を垣間見た者らは、怯えて逃げ出すか、コーランの教えを元に説得を試みるか、いずれにせよ「約束」を拒否する。拒否された男は新たな相手を探すべくまた一人レンジローバーをゆっくりと前進させ、キャメラはその姿を遠くから見守るように緩やかなパンで捉えてゆく。
 運転する男、そこから逆方向に切り返される窓外の風景、そしてまた砂埃とともに「ジグザグ道」を走るレンジローバーのロングショット。キアロスタミ自身の手による編集は、どれ一つとして長すぎも短すぎもしない完璧なリズムの連鎖と均衡を緩やかに画面へ与える。
 男が「約束」を拒否されてゆく。たったそれだけのことが、永遠に続いてほしいと願わずにはいられないほどの映画的快楽をもたらしてしまうという非常事態に観客はとまどう暇もなく、ただひたすらその画面の恍惚に身を委ねるしかないのだ。

 


 

ダンテ『神曲』と女性の不在

 ところで、ここでの「ジグザグ道」の光景について、ダンテ『神曲』の挿絵で描かれた地獄の様子とどこか似ているのではないか?と思い至る人もいるかもしれない。実際、丘陵地帯の急な斜面に段を付けるように伸びる「ジグザグ道」をロングショットで捉えたイメージは、ダンテが通過した地獄の斜面の道とそっくりだといえるだろう。
 しかし、『神曲』にあってはダンテと旅を共にするウェルギリウスもここにはいなければ、天から救いをもたらす永遠の守護女神ベアトリーチェもいない。
 そこであることに気づく。『桜桃の味』の物語が進んでゆく中で、女性の姿が一度も映し出されていないのだ。
 洗い立ての白いシーツを洗濯竿にかけてゆく母親(『友だちのうちはどこ?』)、湧き水が流れる小川で皿洗いに勤しむ少女(『そして人生はつづく』)、映画撮影に向かうトラックの荷台で沈黙する思春期の女性(『オリーブの林をぬけて』)など、水や風と戯れる女性の充実したイメージがキアロスタミ作品の重要な基調を成していたことを考えると、『桜桃の味』における女性の不在は「かつてない不穏な震え」とともにこの作品を特権づけるべく積極的に選択された要素の一つなのだろうか。だとすれば、このまま女性の姿を一度も目にすることなくこの映画は終わるのかもしれない、完璧なリズムの連鎖と均衡が続いてゆくのであればそれはそれで構わないだろう、そのように思考を巡らせているとき、突然事態は動き始める。

 

 

「約束」の終わり、奇跡の始まり

 ある瞬間、そこにいるはずのない一人の老人が、まるで暗い森に佇むダンテの眼前にウェルギリウスが降臨したような唐突さで出現し、「約束」を果たそうと言うのだ。さらには、遂に現れたたった一人の女性のある行動を決定的なきっかけとして、男はこれまで頑なにこだわり続けた「約束」の内容を変更したい、と老人に告げることになる。
 緩やかで完璧な画面の連鎖と均衡は老人の不意の出現によって断ち切られる。それまで画面から排除されてきた女性の出現は男の穏やかな絶望を明るみに引きずり出す。レンジローバーの安定した走行は乱れ、荒々しく速度を増してゆく。
 老人はいかに出現するか、女性のある行動とは何か、男は「約束」をどのように変更するか。これら一つ一つの、あえて言葉で説明するのが躊躇われるほど呆気ない、物語上の飛躍と呼ぶにはあまりにも小さすぎる単なる出来事の積み重ねでしかないはずの光景が、しかし、注意深く画面を見つめる者の心を「かつてない不穏な震え」とは別の新たな感情によって確実に、そして、まるで奇跡に立ち会ったかのように大きく揺り動かす。
 その後、映画はある映像とともに終わりを告げる。誰にも予想することのできないこの映像の不意の出現はいったい何を示すのか。
 たとえばそれは、人類がいまだに受け止め切れていないフィルムとデジタルとの断絶の境で生じた摩擦によるもう一つの「かつてない不穏な震え」、別の言い方をすれば、フィルムの断末魔の叫びなのかもしれない。
 少なくとも私はそのように受け取ったが、あなたはどうだろうか。

     

 


アッバス・キアロスタミ監督作品7本配信中!!

トラベラー
友だちのうちはどこ?
ホームワーク
そして人生はつづく
オリーブの林をぬけて
桜桃の味
風が吹くまま

イラン映画の傑作の数々もぜひ!!

ホテルニュームーン
別離
セールスマン
ボーダレス ぼくの船の国境線
ロスト・ストレイト


(スタッフT.M.)
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(C)1997 Abbas Kiarostami

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【前作から30年、待望の続編】ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!

2021/03/26

歴史上最強のバンドが、人類滅亡の危機を救う!?
最高にハッピーな仲良しコンビが全人類に笑顔と感動をお届け!

 前作からおよそ30年、エアギターをかき鳴らしながら続編を心待ちにしてきたファンの方々に朗報!『スピード』『マトリックス』『ジョン・ウィック』という大ヒット作でスターの座に上りつめたキアヌ・リーブスの原点というべき伝説のコメディ『ビルとテッド』が久々に帰ってきた!
 かつてのファンだけでなくシリーズを知らない若い世代まで、すべての人に笑顔と感動をお届けする『ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!』ビデックスJPで配信開始です!!
 

Story

「ビルとテッドの音楽が将来、世界を救う」と予言されていた伝説のロックバンド“ワイルド・スタリオンズ”。30年待ち続けたが、人気も落ち込み、今や応援してくれるのは家族だけ。そんな2人のもとに未来の使者が伝えにきたことは、残された時間が77分25秒という衝撃の事実。一秒でも早く曲を完成させないと、世界は消滅してしまう。どうなる地球、どうなるビルとテッド!果たして、この世界を<音楽>で救うことはできるのだろうか?!

みどころ

 
 かつては天国も地獄も火星すらも股にかけ幾多の困難を飄々と乗り越えてきた“ワイルド・スタリオンズ”であったが、あれから30年経った現在では世間から見向きもされず、『時を超える絆 愛の科学的物理的生物学的性質 意味の意味を探して パート1』(の最初の第三楽章)などという、いかにも迷走の果てに柄にもないプログレに手を出しちゃったバンドあるあるのような無駄に難解っぽい曲を身内の結婚式で披露してみるも総スカンを喰らうほどの凋落ぶり…
 おバカではあっても(おバカであるがゆえに?)誰よりも陽気な前向きさに満ち溢れていたビルとテッドも人生いろいろあったのか、二人の表情からはかつての若々しい輝きは失われており、うまくいかないバンドも解散寸前…挙句の果てにはわざわざ中世から連れてきて運命的な結婚まで果たした妻からすら愛想をつかされそうになっている…

 もはや夢も希望もないビルとテッドの下に世界の存亡の危機が訪れるというシーンからはじまる本作、こんな感じの二人に人類の未来を託しちゃって本当に大丈夫か?と観客一同の脳裏に一抹の不安がよぎりますが、心配御無用!今回のビルとテッドの冒険は今までとは一味違います。
 今の彼らの音楽に世界で唯一信頼を寄せるもう一つの二人組が奇跡的に存在していたのです。それはビルとテッドのそれぞれの娘、ビリーとティア。
 父親たちを凌駕するほどのロックオタクに育った娘二人は、かつてのビルとテッドのような躊躇いのない陽気な前向きさでダメ親父たちの冒険を助けるべく奮闘します!

 そんなもう一つの二人組を演じるのは、Netflixドラマ『ユニークライフ』でブレイクした世界最強のボーイッシュ女子(勝手に言ってます)ことブリジット=ランディ・ペインと、『スリー・ビルボード』や『ザ・べビーシッター』で忘れがたい確かな演技力を披露した新鋭女優サマラ・ウィービング。
 特にブリジット=ランディ・ペインは、今回の役作りのために父親役のキアヌ・リーブスを一年間尾行した(!)という徹底ぶり。まるで30年前のキアヌ・リーブスが憑依しているかのような彼女の演技には一作目からのファンも唸らされること間違いなし!
 飛ぶ鳥を落とす勢いで人気急上昇中の若手女優二人のフレッシュな魅力はもちろん、前作に出演した死神役のウィリアム・サドラーや、テッドの父親役のハル・ランドン・Jrなど懐かしい面々も登場する本作は、親子二代にわたって楽しめる作品になっております。
 まだまだ外出も油断できない昨今、父と娘で揃ってスナック菓子片手にご鑑賞なさってはいかがでしょうか?見終わった後はもちろん二人でエアギターをかき鳴らしましょう!!


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(スタッフT.M.)
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