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【芸術の秋】アート×フィルム特集

2021/09/10

 

 「総合芸術」と呼ばれる映画は、音楽、文学、演劇、絵画、建築といった、これまで人類が生み出してきたあらゆる「芸術」を吸収することによって、巨大な発展を遂げてきました。いま私たちが当たり前のように受け取っている映画の映画らしさは、決して映画単独で生み出されたのではなく、人類の途方もない遺産の土台の上で構築され、成立してきた結果だともいえるでしょう。だからこそ映画を見るとき、私たちは常に古今東西あらゆる歴史に開かれた窓を覗いているのではないでしょうか。
 というわけで今回は、ビデックスJPで配信中の「芸術」に関する映画作品をたっぷりご紹介します。秋の静けさの中で、「芸術」の奥深さにどっぷり浸ってみては?(スタッフT.M.)
 
 ※画像をクリックすると作品ページに飛べますので、気になる作品がありましたらチェックしてみてください!!
  また、今回ご紹介する全作品一覧は下記よりご覧いただけます。
  【芸術の秋】アート×フィルム特集

フィクション×アート

ドキュメンタリー×アート

モノクロ作品

ファッション

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(C)Filmes Do Tejo II, Eddie Saeta S.A., Les Films De l’Apres-Midi,Mostra Internacional de Cinema 2010(C) Casa Azul Films – Ecran Noir Productions – 2018(C)2002 Hermitage Bridge Studio & Egoli Tossell Film AG(C) CG CINEMA / ARTE FRANCE CINEMA / VORTEX SUTRA / PLAYTIME(C) 2014 InterActiveCorp Films, LLC.(C) CONDOR FEATURES. Zurich / Switzerland. 1988(C)2017 Plattform Produktion AB / Societe Parisienne de Production / Essential Filmproduktion GmbH / Coproduction Office ApS(C)2010 Paranoid Pictures Film Company All Rights Reserved.(C)2010 Beginners Movie,LLC. All Rights Reserved.(C)2016 In Search of Fellini.LLC.All Right Reserved(C) 2014 Sea Urchin Films(C)TvZero(C) 2016 – G FILMS –PATHE – ORANGE STUDIO – FRANCE 2 CINEMA – UMEDIA – ALTER FILMS(C) 2014 EG Film Productions / Saga Film (C) Julian Lennon 2014. All rights reserved.(C)2009 – ALEPH MEDIA(C)Aparte Film, Sacrebleu Productions, Mind’s Meet(C)ELEFILM – SOPROFILMS – T.S.F. PRODUCTIONS – CINE 5 – 1988(C)B.B.B.(C)Hermitage Revealed c Foxtrot Hermitage Ltd. All Rights Reserved.(C)VICE MEDIA LLC AND STRAIGHT OP FILMS(C)2016 A&E Television Networks and RatPac Documentary Films, LLC. All Rights Reserved.(C)2019DiscoursFilm(C)2018 – 3D Produzioni and Nexo Digital – All rights reserved(C) 2014 Gallery Film LLC and Ideale Audience. All Rights Reserved.(C) 2017 Epicleff Media. All rights reserved.(C) 2016 Rivertime Entertainment Inc.(c ) 2018 pictures dept. All Rights Reserved(C) 戸山創作所(C) Roloff Beny / Courtesy of National Archives of Canada (C) Courtesy of the Peggy Gugggenheim Collection Archives, Venice(C)All M.C. Escher worksCopyright 2020 Osaka University of Arts. All Rights Reserved.(C) CDP/ARTE France/Bophana Production 2013-All rights reserved(C)DelangeProduction 2016(C) 1963 IMEC(C) 1966 IMEC(C) 1968 IMEC(C) 2016 Aamu Film Company Ltd(C)1960 STUDIOCANAL – Argos Films – Cineriz(C)大島渚プロダクション(C) 2019 ALL RIGHTS RESERVED SILVER SCREEN CESKCA TELEVIZE EDUARD & MILADA KUCERA DIRECTORY FILMS ROZHLAS A TELEVIZIA SLOVENSKA CERTICON GROUP INNOGY PUBRES RICHARD KAUCKY(C) Northsee Limited 2007(C)Pine District, LLC.(C)1964 F&F PRODUCTIONS, INC. ALL RIGHTS RESERVED.(C)1963 F&F PRODUCTIONS, INC. ALL RIGHTS RESERVED.(C)1957 MELANGE PRODUCTIONS LLC. ALL RIGHTS RESERVED.(C) 2014 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS – CLOSE UP FILMS – ARTE FRANCE CINEMA(C)2013 Guy Ferrandis / SBS Productions(C)Ciudad Lunar Producciones(C)O SOM E A FURIA,KOMPLIZEN FILM,GULLANE,SHELLAC SUD 2012(C)2005表現社(C)2013 Paramount Pictures. All Rights Reserved.(C)1974 KANOON(C) 1995 Twelve Gauge Productions Inc.(C)2017 JEONWONSA FILM CO. ALL RIGHTS RESERVED.(C)Copyright 2010 LES FILMS DU LENDEMAIN – LES FILMS DE PIERRE – FRANCE 3 CINEMA(C) 2014 MOJO ENTERTAINMENT LLC Authorised by The World Licence Holder Aram Designs Ltd.,(C) 2014 EG Film Productions / Saga Film (C) Julian Lennon 2014. All rights reserved.(C) 2014 WAW PICTURES All Rights Reserved.(C)2014 NEXT ENTERTAINMENT WORLD Inc. & YLAB Co.Ltd. / NOMAD FILM Co.Ltd. All Rights Reserved.(C)2013 BLACK DYNAMITE FILMS,TARKOVSPOP(C)The New York Times and First Thought Films.(C)2012 BG PRODUCTIONS,LLC. ALL RIGHTS RESERVED.(C) Bufo Ltd 2015(C)2014 Schatzi Productions/Filmhaus Films. All rights reserved(C) 2016 – G FILMS –PATHE – ORANGE STUDIO – FRANCE 2 CINEMA – UMEDIA – ALTER FILMS(C)2017 mint film office / AVROTROS(C) Raymi Hero Productions 2017(C) 2019 HIGH SEA PRODUCTION – THE INK CONNECTION – TAYDA FILM – SCOPE PICTURES – TRIBUS P FILMS — JOUR2FETE – CREAMINAL – CALESON – CADC(C)2016 CG Cinema – VORTEX SUTRA – DETAILFILM – SIRENA FILM – ARTE France CINEMA – ARTE Deutschland / WDR(C) ROOK FILMS FABRIC LTD, THE BRITISH FILM INSTITUTE and BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2018

※ご留意事項※ 将来、テキストや画像をクリックし、飛び先がリンク切れになる場合は、配信期間が過ぎ終了した為です。ご了承いただけると幸いです。

「夏の光をめぐって」 ジャン・ルノワール、大島渚、相米慎二、ミゲル・ゴメス、ジェフ・ニコルズ、ホウ・シャオシェン

2021/08/20

 世界で初めて一般観客へ向けて上映された映画作品とされる『工場の出口』(1895)をルイ・リュミエールが撮影したのは、1894年の夏のことだったと言われています。このたった50秒の色も音もないワンショットの映像が人々の瞳に焼き付いて以来今日に至るまで、無数の映画作品が夏の光によって恩寵を授かってきました。いくら技術が発展し、色が着き、音が鳴り、キャメラが動き回り、映像がいくつものショットに分裂し、さらにはフィルムからデジタルデータへ姿を変えたとしても、いまだ映画にとって夏の光が特別なものに思われるのは、120年以上も前のあの日、まさに産声を上げようとしていた瞬間の遥かな記憶を、映画がいまもなお留め続けているからに他ならないのではないでしょうか。
 国籍も時代も関係なく、夏を映した映画であればそれを見たときにはいつでも感じるあの郷愁のような、胸が躍るようでいてどこか寂しげな不思議な感覚の秘密は、ひょっとしたらそんな映画の出自に纏わる記憶に隠されているのかもしれません。
 というわけで今回の「どれ観よ PICK UP」は、ビデックスJPで配信中の作品から厳選した夏映画の傑作6作品をご紹介します!!

ジャン・ルノワール『ピクニック』(1936)

あらすじ
 夏のある晴れた日。輝く太陽、匂い立つ草、穏やかな水面、幸せなピクニックの一日はきらきらと輝いていた。結婚を控えた娘アンリエットは自然に導かれるように、現地で出会った青年アンリと結ばれる。永遠に消えることのない一瞬の輝き。そして待ち受ける別れと再会。人生のすべてと美が結晶した奇跡の映画。

コメント
 戸外と室内、晴天と雨天、男と女、歓びと悲しみ、美しさと醜さ、無垢と欲望、通俗と芸術、静止と運動、饒舌と沈黙、光と影、永遠と一日。『ピクニック』とは、映画のあらゆる相対する事物や感情が互いに開かれるための窓であり、と同時に、その窓をときには微かに、ときには荒々しく吹き抜ける官能の風である。そしてその風はいつしか強大な竜巻のように渦を巻きはじめ、ちょうど『オズの魔法使』(1939)でジュディ・ガーランドが避難した部屋が宙空へ吹き飛ばされるように、あなたがいまいるその部屋までも、誰も見たことのない虹の彼方へと運んでゆくだろう。いささかロマンティックに過ぎる言いぶりだろうか。そう思われる方は一度この作品を見て、ブランコに揺られるシルヴィア・バタイユの輝きに不意撃ちを喰らってみてはいかがか。全世界の大気を揺るがすほどのショットというものがあるのだ。
 ブランコだけではない。このたった40分間の、あらゆる瞬間が驚きに満ちている。ジャン・ルノワールは形式ではない。一つたりとも予測しえないショットの連鎖であり、運動だ。誰もが無意識の中で待ち望んでいる途方もない何かが、いままさに眼前に姿を現わそうとしている瞬間の高揚と恐怖だ。
 映画はまだ自分が何者かさえ分かっていない。生まれたばかりの映画は、目に映る光景、鼓膜を震わせる音、指先に触れる物一切に驚いている。いったい映画はこれから何者になるのだろうか。この大嵐がやってくるような予感は、いったい何だろうか。
 人にそんな思いを抱かせる映画を作るのは、ジャン・ルノワールだけなのだ。

大島渚『夏の妹』(1972)

あらすじ
 大島渚最後のATG映画。素直子は父の婚約者でピアノの家庭教師でもある桃子と本土復帰直前の沖縄にやってきた。数ヶ月前、素直子は大村鶴男と名乗る沖縄の青年から手紙をもらい、自分たちは兄妹かもしれないというので、鶴男を訪ねて沖縄にやってきたのだった。下船した素直子はさっそく観光客に沖縄語を教えて金を稼ぐ青年と知り合い、親しくなる。実は彼こそが鶴男なのだが、彼は庭先で見かけた桃子を素直子だと勘違いしているので、二人はお互いに気づかないまま、すれ違いを繰り返していく。一方、沖縄人に自分を殺してほしいと、その相手を探す老人がいる反面、本土の人間を殺したいと願い、相手を探す男がいる。三世代それぞれの者たちの思いは交錯し、沖縄の青い空に溶け込んでいく……。

コメント
 本土から沖縄へ向かうべく足早に進む船のへりから海を見下ろした映像だろうか。ファーストショット。海面の青と波しぶきの白に浮かび上がる深紅のタイトル。どんな映画で見たよりも濃い青と白と紅に恍惚とする暇もなく、武満徹による映像と物語に従属することを断固として拒否するかのようなあまりにも和やかな旋律をいったん耳にしてしまえば、その後95分間は大島渚の「挑発」がもたらす快楽から逃げることはできないだろう。
 栗田ひろみの小動物的可憐さや、りりィの日本人離れした顔貌と裸体の曲線美、殿山泰司のてかり顔の猥雑さ、佐藤慶の鋭すぎる眼光といった魅力の数々は、それぞれ生半可な調和を受け入れることなく、むしろ沖縄の夏の陽射しに照らされながらコントラストを強めていき、次第に小山明子の不敵な微笑みが象徴するような「挑発」の巨大な肖像を浮かび上がらせる。大島渚の政治学とは、つまり、まるで嵌りそうにない形状のピース同士をあえて並べては力づくではめ込んでみせ、その折れ曲がったピースの隆起と陥没の手触りによって観客の知覚を「挑発」することである。ところで、そのようにして出来上がったパズルの総体のいびつさは、極東のどこかに位置する某国家の政治とよく似てはいないだろうか。

相米慎二『夏の庭-The Friends-』(1994)

あらすじ 
 神戸に住む小学6年生のサッカー仲間、木山諄、河辺、山下の3人は、人が死んだらどうなるかに興味を抱き、きっともうじき死にそうな近所に住む変わり者の老人・傳法喜八(三國連太郎)を観察することにした。朽ちた屋敷に忍び込み老人の日々を観察する。初めは子どもたちを邪険に追い払う喜八だったが、次第に優しく接するようになり、彼らとの交流が始まり、やがては子どもたちも庭の手入れを手伝うようになる。喜八は徐々に子ども達に自分の過去を語りだす。分かれた妻、戦争の残酷な体験・・・喪われ逝くものと、決して失われないものに触れた少年たちのひと夏の物語。

コメント
 いつどこで見たのかはっきりとは覚えておらず、物語も、ほとんどあらゆる細部も記憶から遠ざかってしまったにも関わらず、たった一つのショットだけは鮮明に記憶の表層に焼き付いたままでいるということがある。『夏の庭』で、三國連太郎演じる老人の死体を少年たちが発見し、動揺し、悲しみに暮れるというワンショットがその一つである。動かぬ老人に救命措置を試みるも時すでに遅し、脈が止まっているのを確認してようやく老人の死を少年たちが受け入れるに至る、その過程を相米はワンショットで捉えるのだが、仰向けに倒れた三國連太郎の腹がはっきりと上下に動いているのだ。キャメラワークを工夫すれば、あるいはカットを割れば映すのを避けることができたはずの腹の動きを相米は隠そうとせず、あえて観客に提示してみせる。
 『不滅の女』(1963)について、ヒロインの女は物語的に死んだのかどうかを尋ねられたアラン・ロブ=グリエが「役者を殺すはずがない」と身も蓋もなく答えたように、フィクションとしての映画は現実的な死を捉えることは絶対にできない(例えば人が本当に死ぬ瞬間を撮影したとしても死そのものは映らない)が、しかし、その不可能性に自覚的であってはじめて死を想像するためのイメージと運動を捉えることができるのだ。この現実的な不確かさと想像的な確かさの臨界点へとあえてキャメラを向けんとする態度こそが、相米の倫理なのである。

ミゲル・ゴメス『熱波』(2012)

あらすじ
 二人の恋は、ひりつく夏の日差しのように、熱く燃えあがって終わりを告げた。けれどその想いは、互いの胸の中で一生消えはしなかった。気性が粗く、ギャンブル好きの老婆アウロラ。彼女は、なかなか会いに来ない冷たい娘の事を気に掛けながら、お手伝いのサンタと、何かと世話を焼いてくれる隣人のピラールを頼りに暮していた。ある時、病に倒れたアウロラは、自分に死が迫っている事を知り、突然ヴェントゥーラという男を呼んでほしいと言い出す。ピラールは訳も分からず、消息不明のヴェントゥーラ探しに奔走する。二人には、ある約束があったのだ。そして50年の時をさかのぼり、二人が若かりし頃に出会ったアフリカ-タブウ山の麓での、胸を焦がすような熱い記憶が甦る。

コメント
 ミゲル・ゴメスをご存じだろうか。ポルトガルはおろか、世界を見渡してもいまや数人しかいないほど貴重な、真に女優を撮ることができる映画作家である。「女優を撮ることができる」とは、どういうことか。それは「完璧なショットを撮ることができる」とほぼ同義であるとひとまず言うことができる。
 アヴァンタイトルの短い寓話からはじまり、老女(アウロラ)とその召使、そして老女の唯一の理解者である隣家の中年女性という三人の女が演じる前半部分のショットはいずれも「完璧」である。スタンダードサイズの端正な構図の中のここしかないという位置で、光と影が絶妙なバランスで配されたライティングー40-50年代のハリウッドからそのまま射してきているかのようなーを受け止めながら佇む女たちのショット。この35mmフィルムで撮影されたモノクロのショットのすべてが文句のつけようのない完璧さで見る者を穏やかな興奮に誘う。
 と同時に、果たしてこのままでよいのだろうか、という一抹の不安が胸を過ぎる。この類の「完璧なショット」に作家が拘泥し、作品全編を貫いた結果として退屈さをもたらしてしまうという事態に幾度も立ち会ったことがあるからである。それを乗り越えるほどの強度ー例えばペドロ・コスタの『ヴィタリナ』(2019)ようなーを『熱波』のショットは持ち合わせていないように見えてしまうだ。
 そんな不安を見透かしたかのように、映画は孤独な死を迎えたアウロラの若かりし一時期の出来事を回想しはじめ、画面は16mmフィルムの粗い粒子に覆われる。そのとき、完璧だった構図は緩やかに崩れていき、キャメラはときに三脚から解き放たれ、それまでなかった躍動感が画面の隅々にまで行き渡っていく。回想の中の人物からは声が失われ、現在の時間からのモノローグだけが発声されることで、疑似的なサイレント映画の形式が立ち上がる。こうして2時間ほどの上映時間を大きく二つに分断してみせるミゲル・ゴメスは、かつて優れた短編作家であった自らの資質を把握しているかのようでもある。世界的に失われつつあるこの慎しい聡明さを持ち合わせているだけで、ミゲル・ゴメスを貴重な映画作家だと断じてしまいたい欲望にかられるのである。
 さらに、ミゲル・ゴメスの貴重さはこの聡明さに留まることはない。「完璧なショットを撮ることができる」ことと「女優を撮ることができる」ことの膠着した関係を、この16mmフィルムで撮影された後半部分であっさりと裏切ってみせるのだ。
 回想の中で、夫の子を身ごもりながら、夫とは対照的な野生的魅力に溢れる男と不倫関係に陥ったアウロラは、不意に訪れた男との別れを受け止めることができない。男との手紙だけのやりとりで互いにこの不義の関係を終わらせなければならないことを表明しあえばしあうほど、手の届かない愛情が激しさを増してゆくばかりだ。この禁止された愛の高まりに嗚咽し、打ち震え、言葉なしの涙を溢れさせるアウロラを捉えたショットーロネッツのBe My BabyをLes Surfsがスペイン語でカバーしたTú Serás Mi Babyが流れるーの素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。「望まれるのであれば、いつでもこの脈打つ心臓を差し出すわ」と手紙に書かれた言葉の通り、ここではいかなる打算、いかなる相対性とも無縁の唯一絶対の価値としての愛、つまりは、命がけの美が紛れもなく現前化している。決して「完璧な」画面たりえない16mmフィルムの粗い粒子に託された、痛ましく、暴力的なほどの美が。もしかするとミゲル・ゴメスが傑作『私たちの好きな八月』(2008)で捉えたあの若い女性の涙のショットを思い出す方もおられるかもしれない。そう、ミゲル・ゴメスは偶然このショットを撮りえたのではないのだ。自らの慎ましい聡明さという資質をいつ踏み外すべきか、大胆に飛躍すべきときはいつなのかということまでミゲル・ゴメスは心得ているのである。
 幸か不幸か再会を果たしたこの許されざる男女は、まさに命がけの美という呼び名に相応しく規範の道を踏み外し、最後の賭けに出るだろう。その果てにふと現れる一つのショットが、リュミエール兄弟によってベトナムに派遣されたガブリエル・ヴェールが撮影した『Le village de Namo : panorama pris d’une chaise à porteurs』(1900)と酷似しているという事態について思考しうる言葉を、人類はいまだ持ち合わせてはいない。

ジェフ・ニコルズ『Mud マッド』(2012)

あらすじ 
 アメリカ南部、ミシシッピ川中州にある小さな島が舞台。14歳の少年エリスとネックボーンは、その島に潜伏する奇妙な男マッドに出会う。マッドは2人に嘘か本当か、テキサスで殺人を犯し賞金稼ぎに追われているが、町で自分を待つ恋人ジェニパーに会うため助けを借りたいと話す。興味をもった少年たちは、マッドに協力することを決めるが…。

コメント
 この世には天使のように身も心も美しいヒロインなど存在しないし、世界を滅亡の危機から救う正義のヒーローも存在しない。ヒロインとヒーローによる脇目も振らない相思相愛の純愛が世界に希望を与えることもなく、あるのはただひたすら苦いだけの現実だ。社会のシステムに翻弄され、踏み躙られ、人間であることを否定され、否定性の只中に埋没しながら精一杯の歯軋りとともに残りの生を擦り減らす。他人よりも何ミリかはマシな人生を送るだけのために噓を吐き、裏切り、嫉妬し、疑い、出し抜き、蹴落とし、見捨て、引き攣った愛想笑いを浮かべる。人生など所詮そんなものだ。
 ハリウッドと呼ばれる夢の工場が機能不全に陥って以降、1970年代のアメリカ映画はそんな現実の苦さを、予算も技術も急速に失われていく映画の現実の苦さそのものを画面に生々しく露呈させる過程を通して物語るようになった。それからまた時は経ち、いまやスタジオを知る映画監督も技術者もみなこの世を去り、フィルムはデジタルに置き換えられ、その清潔な映像は崩壊の苦さの歴史などまるで存在しなかったかのようにスクリーンに映し出されている。
 整理整頓され、掃除され、漂白された情報で覆われた出口なしの世界。それこそいま私たちが生きる現実だ。ところがジェフ・ニコルズは、この出口なしの世界に風穴を開けることができると確信するように、35mmフィルムを回し続ける。ニコルズがこれまで監督した5本の長編映画(そのうち4本は2011年以降製作された)のいずれも35mmフィルムで撮影されているのだ。現在ニコルズが監督として抜擢されたと報じられている『A Quiet Place Part III』もかなりの確率で35mmフィルムによって撮影されることだろう。『クワイエット・プレイス』(2018)と『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』(2020)の2本を35mmフィルムによって撮り上げたジョン・クラシンスキーが3作目の監督に相応しい人物としてニコルズを選択したのは、ニコルズのフィルムへのこだわりとその達成をクラシンスキーが信頼していたからに他ならないはずだ。
 とりわけ『Mud マッド』でニコルズが作り上げた画面の質を見ると、フィルムの感触だけに頼った自堕落な「芸術作品」に留まるものではないことが分かる。ここではD.W.グリフィス以来の古典的なショットのつなぎ(古典的デクパージュ)が、現代映画としての新鮮さと矛盾することなく達成されているのだ。
 『Mud マッド』でマシュー・マコノヒーが初めて画面に姿を現すシーンを見てみよう。無人島を探検した二人の少年は、帰路を急ぐべく川べりに置いたボートに駆け寄る。ボートにたどり着いた少年の一人が自分らのものではない足跡を見つける。足跡の行く先を辿ってみると、砂浜の真中で足跡は途切れている。ボートの方へ振り返ってみると、そこにはついさっきまでいなかったはずの見知らぬ男が立っている。男は少年らへ向けて右手を上げ、言葉なしで挨拶する。
 このシーンにおける引きと寄り、同軸のつなぎと切り返し、視点ショットの挿入を組み合わせた20ほどの短いショットの連鎖は、心地よく観客の視線を誘導し、惑わしながらマシュー・マコノヒー演じる男の幽霊性を端的に表してみせる。絶景に彩られたわけではなく、無償の光が輝いているわけでもない、どこにでもありそうな砂浜を、このショットの連鎖によって、不穏かつ幻想的、そして決定的に忘れ難い出会いの場としてニコルズはあっさりと機能させてしまうのだ。
 中盤、両親の不和の中で少年が家出を決意するシーンの少年のクロースアップと部屋の窓の切り返しにしても、終盤で男が執着し続けた女とついに別れを告げるシーンの高低差と遠い距離を挟んだ無言の切り返しにしても、決定的に物語が動くシーンにおいてニコルズは、あえてどこにでもあるような現実的な場を選択し、端的で正確かつ新鮮なショットの選択によって純粋に映画的な空間に変貌させてみせる。
 ニコルズの作品が出口なしの現実に穴を穿つのはこういった瞬間だ。懐古趣味に陥ることなく冷静に歴史を見据え、現実と映画の苦さを取り戻したうえでさらにその先の、ボードレールの言う「この世の外」へ視線を馳せるのである。
 嘘と裏切りと嫉妬の果てに満身創痍の身体でついに船出した男が、相も変わらず苦いままの現実のその先に見据えるあの風景を、目を逸らすことなくしかと見届けていただきたい。

ホウシャオシェン冬冬の夏休み』(1984)

あらすじ
 1984年夏、冬冬(トントン)は妹の婷婷(ティンティン)を連れて、夏休みの期間中、祖父母の家に預けられることになった。目的地の銅鑼駅に降りたった二人を待っていたのは、村の少年たち。阿少國を初めとする少年たち。早速、仲良くなった友達がこれからの楽しい夏を予感させる。そして、一見厳しいが孫思いの祖父との交流、仲間たちとの川遊び、少し頭が弱いが婷婷を救ってくれた寒子(ハンズ)との出会い…田舎でのひと夏の経験は二人の心に忘れられない宝物を残してゆく―

コメント
 ここには自分の生が描かれている、と感じる映画の一本や二本は誰にでもあるだろう。『冬冬の夏休み』は私にとってそんな作品の一つである。それは決して、知的障害があり言葉を話さない我が妹を寒子に重ね合わせたり、親から妹の世話を託されながらも友人と遊びたい冬冬が妹の婷婷の存在を疎ましく思う感覚に似たものが幼い日の自分にもないわけではなかったことだけが理由ではない。
 最大の理由は、ホウ・シャオシェンのキャメラが「ずっと前からそこにあったような視点」で世界を捉えるからである。何百年か何千年か分からないが、いずれにせよ映画が誕生するずっと前から、そこに暮らす人々や家、動物、樹木、川、山といった土地の風景を、遠すぎも近すぎもしない距離から見つめ続けてきた精霊のような存在の視点。幾度となく繰り返されてきた生と死の営みを、審判することなく、物語ることもなくただ単に見つめるだけの視点。と同時に、台湾など行ったこともないのに、まるで自分がかつてそこで暮らしていたかのような錯覚に眩暈を覚えるような、そんな視点。ホウ・シャオシェンはまさにその場所にキャメラを置く。

 寒子の話をしよう。寒子はいつでも傘をさしている。紫色と水色の傘を、雨の日も、晴れの日も。寒子は言葉を話さない。子供たちは寒子の奇矯な様子を恐る恐る観察してはひそひそ笑い合う。大人たちは寒子が不幸な人だと言う。愚かな鳥狩りの男は抵抗も告げ口もしない寒子を犯し、子を孕ませもする。それでも寒子は動じない。いつものように傘をさして歩きたい道を歩き、いつもの木陰の道祖神にお祈りし、覚束ない手先でマッチを擦って美味そうに煙草をふかす。
 寒子は奇跡を起こす。冬冬とその仲間たちに追い払われた婷婷が、それでもこっそり兄についていこうとして踏切の線路に身を潜めていると、そこに電車がやってくる。寒子は間一髪で婷婷を救う。婷婷をおぶって家の前まで送り届けもする。誰よりもよく人を観察し、誰よりも村のことを知っているのは寒子だ。
 婷婷は、樹上の巣から落ちた生まれたての小鳥を見つける。冬冬は、もう死んでいるから川に流せ、そうすれば生まれ変わるだろう、と言う。もはや兄を信用していない婷婷は、本当に信頼できる唯一の存在である寒子のもとを訪れ、兄が言ったことが本当かどうか尋ねる。寒子は、小鳥の亡骸を両手に包み込み、どこまでも響きわたって行きそうな、悲痛極まりない嘆き声をあげる。
 強い風が吹く。樹々はざわめき、陽光が流れ、一瞬よりはいくらか長く続く白い閃光が寒子と婷婷を柔らかく包み込む。何のことはない、今も昔も、奇跡というのはそのようにしてやってくるものなのだ。
 その後、寒子の身に突然訪れる悲劇については語らずにおくが、この悲劇が寒子と婷婷という二人の疎外された者の瞳に誰よりも強いまなざしをもたらすということだけは語っておこう。二人のまなざしを捉えるとき、ホウ・シャオシェンのキャメラは無人称的な視点を外れ、初めて一人の映画作家、現実に生きる人間としての倫理を示す。言語外の意志の強度というべき、誰よりも寡黙で、誰よりも激しい感情がそこに立ち上がる。
 そうして冬冬と婷婷の夏休みは終わる。都会に帰る車が到着する。婷婷は寒子の姿を見つける。寒子はいつものように傘をさして歩いている。婷婷は寒子の名を呼ぶ。寒子は振り返らない。色彩鮮やかな傘が、いつものように揺れている。
 都会に帰った冬冬と婷婷が成長し、恋をし、結婚し、子を育て、年老いて最後の瞬間を迎えるとき、ひょっとしたらこの夏のことをふと思い出すかもしれない。そんな夏の一つや二つは誰にでもあるだろう。
 土地の精霊の視点に立ち戻ったキャメラは、都会へ帰ってゆく冬冬と婷婷を乗せた車を見送る。何百年か何千年かわからないが、ずっと前からそこに流れていた風が今日も吹き、樹々を優しくざわめかせた。

                                         (スタッフT.M.)

                                

まだまだあります!ビデックスJPの夏映画!!

セミマゲドン
ミッドサマー
フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法
エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に
セルフィッシュ・サマー ホントの自分に向き合う旅
グレイテスト・サマー
サマー・オブ・84
3人のアンヌ
グッバイ、サマー
サマーフィーリング
わがままなヴァカンス 裸の女神
フラガール
お引越し
飼育
HOMESICK
午後の遺言状
歩いても 歩いても
夏の終り
夏時間の大人たち
ゆめのかよいじ
円卓~こっこ、ひと夏のイマジン~
ブルーアワーにぶっ飛ばす
ドンテンタウン
チルソクの夏
藍色夏恋 デジタルリマスター版
夏物語
灼熱

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(C)大島渚プロダクション(C)1994 読売テレビ放送株式会社(C)O SOM E A FURIA,KOMPLIZEN FILM,GULLANE,SHELLAC SUD 2012(C)2012,Neckbone Productions,LLC.(C)A MARBLE ROAD PRODUCTION 1984

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「本当のことを云おうか」 ショットの即物的、倒錯的快楽について アラン・ロブ=グリエ『不滅の女』

2021/07/09

 
 初脚本作である『去年マリエンバートで』(1961年)で世界的な成功を収めたアラン・ロブ=グリエは、1963年に初監督作となる『不滅の女』を製作します。その後ロブ=グリエは、ヌーヴォー・ロマンの代表的な作家でありながら生涯で10本もの映画を監督することになりますが、そのすべてが小説家の素人芸の域をはるかに超えた高度に斬新で充実した映画的達成を見せています。日本では長い間ほとんど見る機会のない幻の映画であったロブ=グリエ作品は、2018年のレトロスペクティブを皮切りにようやくその全貌を現わそうとしています。
 今回はそんな映画作家ロブ=グリエの記念すべき第一歩となった『不滅の女』にスタッフT.M.氏が挑みます!T.M.さん、準備はよろしいでしょうか?

 

 

 「その本当の事は、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なんだよ。蜜はそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?」                       
                              大江健三郎 『万延元年のフットボール』


 本当のことを云おうか、とアラン・ロブ=グリエは呟く。小説がそうであるように、映画にもまた物語など存在しない。小説であれば存在するのは白い紙の上で踊る黒い染みばかりだし、映画であればスクリーンの表面に浮かび上がる光と影の荒唐無稽な戯れが存在するだけだ。映画は1秒間に24回繰り返される虚構である。その身も蓋も無い即物的な現実を、ロブ=グリエは決してもっともらしい自然さで取り繕うことなく、あられもない姿のまま観客の前に放り出してみせる。
 1895年に誕生して以来、無数の物語という装飾に包み込まれ続けてきた映画からその虚飾を引き剥がし、もはや廃墟となりつつある構造そのものを露呈させること。その残酷極まりない遊戯を人はロブ=グリエの作品と呼ぶのである。
 『去年マリエンバートで』とほぼ同時期に製作されたロブ=グリエの処女作『不滅の女』におけるショットごとの断絶・飛躍によって時間軸を錯綜させてゆくという構造は『去年マリエンバートで』から一貫した発想によるものだといえるが、しかし『不滅の女』の作品としての印象は『去年マリエンバートで』とはまったく異なっているといえるだろう。まるでよく似た相貌の双子の兄弟が真逆の性格を持ち合わせているかのようでもある。おそらくは品行方正な兄に対する出来の悪い弟と一般的には見なされているであろう『不滅の女』の問題児ぶりを、ここではつぶさに観察してみようと思う。

 

 

 半ば瓦礫と化した姿で連なる建築物を捉えた移動ショットは、『去年マリエンバートで』の完璧に安定した超自然的な浮遊感とは真逆の、極めて現実的な荒々しさで見るものを困惑させる。観客にフレームの外の存在を上映時間の間すっかり忘却させるほどの透明な美で見るものを陶酔させたあの『去年マリエンバートで』の移動ショットが、ここでは、フレームの中にしか存在することのできないショットとしての自らの限界に苛立ちを隠そうとせず、フレームの外の現実へ向かって息せき切って逃れ去ろうとしている。建築物であることを辞めようとすればするほど、自らの建築物としての構造を露呈させてしまうという存在論的な限界に打ちひしがれているような風情の廃墟の群れに自らの似姿を見る『不滅の女』のファーストショットは、それが不可能であることを十分に理解しながら、なおも映画であることを辞めてしまいたいと欲望する悲愴な衝動に突き動かされれば突き動かされるほど、自らの映画としての構造そのものと向かい合わざるをえなくなる。
 しかし、この痛ましい逃避行も長くは続かない。突如鳴り響いたいかにも自動車の事故が発生したらしい衝撃音によってショットの持続が断ち切られるからだ。自動車事故という物語上の事件を示すにしては映像に特別工夫もなく、フィクションとしてのリアリティを著しく欠いた紋切り型の音響だけが鳴り響くとき、ロブ=グリエはこのファーストショットに対して、ショットはショットでしかないという身も蓋も無い現実を突き付けてみせる。
 続いて現れた女のクロースアップにしても、「寝そべって瞬きせず表情も変えずキャメラを見つめ続けろ」と演出されたであろう女優の身も蓋もない現実そのものが映し出されている。映画のショットである以上、一定時間持続する物語においてリアルな説得力を持つ一断片を形成し、観客との共犯関係を築くことを目指すのが一般的な意味での撮影なり演出なり編集というものであるが、ロブ=グリエはそういった製作者と観客による妥協の産物であるところの馴れ合いを拒否する。それどころかロブ=グリエは、映画撮影の現場に一度でも立ち会ったことがなければ知りえない撮影行為というものの不自然さそれ自体を、隠蔽することなくこれ見よがしに提示して、馴れ合いを求める観客の神経を逆撫でしようというのだ。

 そもそもがこのクロースアップの女もその女を求め続ける主人公の男も取り立てて美形であるということもなければ演技が達者であるわけでもなく、素人らしさがリアリズムの再構築に貢献するといったこともない。表情、話し方、歩き方、立ち止まり方といったあらゆる身振りは物語への貢献を避け、人物の感情を説明することもない。ロベール・ブレッソンやジャック・タチの場合とも印象の異なるその不自然さは、まるでただ監督にそうしろと言われたからそうしているといった感触の身も蓋もなさを失うことは一切ない。また、この二人の人物ばかりでなく、女と陰謀めいた関係がありそうでなぜかドーベルマンを何頭も連れたサングラスの男だったり、観光客相手にうさんくさい土産物を売りつける男だったり、主人公の男を地下の廃監獄へ導く少年だったりという『不滅の女』に登場するあらゆる人物がフィクション上の自然さを欠いたまま、不自然さばかりを遠慮なく発揮してみせる(ロブ=グリエの夫人であるカトリーヌ・ロブ=グリエだけがいくらか楽しそうに演じているようにみえるのが微笑ましい。その後いくつものロブ=グリエ作品に出演し、その素晴らしい存在感を見せているのだから、彼女はここで何かをつかんでしまったのかもしれない)。

 

 

 さらには、ショットのあり方についても『去年マリエンバートで』の場合と大きく異なる様相を呈している。『去年マリエンバートで』においては、ホテルの庭だったり、女の明るい部屋だったりという印象的な場所が何度も繰り返して現れるのだが、一度選択されたキャメラアングルが再び選択されることはなく、かつ、それぞれすべてが完璧な美しさを有しているので、そのあまりの贅沢さに恍惚とさせられる。しかし、『不滅の女』の場合はというと、冒頭でこれ見よがしに映し出された船上、草木が生い茂る庭園、海鳥が飛び交う砂浜、男が窓辺でブラインドを覗く部屋、そして寝そべった女の硬直したクロースアップといった印象的なショットの数々が、反復して現れるたびに同じアングルに留まっているのだ。
 物語はたしかに進行している。男は偶然出会った女にたしかに惹かれているし、女の不意の失踪に男はたしかに戸惑っていて、その失踪の秘密はきっとあのドーベルマン連れの男が握っているだろう、等々。台詞上それは理解できつつ、しかし、そういった展開を映し出すショット自体は、何度も反復し、それも同一のアングルで同じ場所を映し出す。といってもそれは、それぞれの場所における全ショットを一日で撮影したかのようなB級的な貧しき者の力がもたらす活劇性の魅力とも異なっている。『不滅の女』はただひたすら、贅沢なまでに即物的なのだ。主人公も脇役も、生きている女も死んだ女も、部屋も船上も浜辺も廃監獄もすべてが同質の即物性をもって代わる代わる画面上に現れては消えていく。そしてこれらのショットは、物語の進行がいよいよ核心に触れようとしていると観客に期待を抱かせた途端に、また核心から遠く離れた元の場所にそっくりそのまま収まってしまい、その瞬間、期待を裏切られた観客の目にはただ即物的な映像が映っているだけなのだが、それがこれほどまでに豊かに見えてしまうのは何故だろうか。
 凡庸な素人が適当に撮ってこういくものではない。徹底した緻密さで演出され、撮られ、編集されないかぎりこのタッチは生まれようがないのである。この技術の獲得に至った映画作家は、映画史を見渡してもロブ=グリエ一人しかいないだろう。彼は最後の作品に至るまで孤独にこの即物的な、としか言いようがない独特のタッチと戯れ続けたが、あくまで小説家として名を成した人間が何の経験もなく不意に撮り上げてしまった処女作の段階でそのタッチが達成されてしまったのは映画史上の永遠の謎である(ロブ=グリエは『去年マリエンバートで』の撮影現場に一度も訪れなかったらしい。アラン・レネの演出に影響されなかったことで、映画の撮影現場というものの純粋に身も蓋もない現実と無垢な心で向き合うことができ、そのことで何かに目覚めてしまったのではないか)。

 

 

 さて、最後にもう一つ本当のことを云おうか。
 私がそうであるように、延々と反復される期待と裏切りによって神経を逆撫でされたはずの観客の中には、激昂したり素知らぬ顔で画面から視線を逸らしてみせるどころか、その否定性の残酷さ、物語を否定する即物性に対して快楽を得てしまう者が確実に存在する。一般的には反映画的とみなされている瞬間のことごとくが、この上ない魅力で溢れた純粋に映画的な瞬間に感じられてしまう倒錯者のことである。そうなってしまったが最後、その観客はすでにロブ=グリエに導かれるまま、あの廃墟の暗い奥底にそびえたつ壁の鎖に視線を縛られ、『不滅の女』のあのクロースアップのように瞬きせず表情も変えず画面を見つめてしまっているに違いない。だからこそ、映画作家ロブ=グリエとその作品への愛を口にするときは注意したほうがよろしい。それはきっと、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なのだから。あなたはそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?

                                          (スタッフT.M.)




アラン・ロブ=グリエ監督作品6本、好評配信中!!

不滅の女
ヨーロッパ横断特急
嘘をつく男
エデン、その後
快楽の漸進的横滑り
囚われの美女

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(C) 1963 IMEC

※ご留意事項※ 将来、テキストや画像をクリックし、飛び先がリンク切れになる場合は、配信期間が過ぎ終了した為です。ご了承いただけると幸いです。

亡霊は至るところに アラン・レネ『去年マリエンバートで』

2021/07/09

 


 「映画史上最も難解な映画」と評されたこともあるアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』。1959年に広島を舞台にした『二十四時間の情事』を監督し、長編第一作でありながら批評的成功を収めたレネは、ヌーヴェル・ヴァーグの最重要人物の一人とみなされるようになります。その後レネは1961年に長編第2作としてこの『去年マリエンバートで』を監督しますが、本作の脚本を務めたのは、なんとヌーヴォー・ロマンの代表的な小説家でもあるアラン・ロブ=グリエ。1957年の『嫉妬』と1959年の『迷路のなかで』ですでに新進気鋭の小説家として注目されていたロブ=グリエは、初めて映画脚本を手掛けたにもかかわらず、本作でアカデミー脚色賞にノミネートされ、作品としてもヴェネツィア国際映画祭で最高賞である金獅子賞を受賞します。
 そんな時代の寵児二人がタッグを組んだ映画史上の名作中の名作である『去年マリエンバートで』を、スタッフT.M.氏はどのように見たのでしょうか。最後までごゆっくりお楽しみください。
 

 

 

「観客が最も自問しがちな疑問は、以下のようなものだ。この男と女は本当に去年マリエンバートで恋に落ちたのか?若い女は覚えていて、単にあのハンサムな見知らぬ男のことを知らないふりをしているだけなのか?それとも彼女は自分たちの間に生じたことを、本当にすっかり忘れてしまっているのか?等々。一点だけ再確認しておこう。そんな疑問には何の意味もない」

「そのフォルムにこそ、映画の真の内容を求めねばならない」  
                                       アラン・ロブ=グリエ


 いま、微かな声が聴こえはじめ、それは次第に私たちの耳にもはっきりと聴きとれるほど声量を増してゆくのだが、いつの間にかまた私たちの耳から遠ざかっていってしまう。

 誰もいない広間に通じる
 ひと昔前の装飾が重苦しい
 人の足音も
 分厚い絨毯に吸い込まれてしまう
 あまりの分厚さに
 何の音も届かない
 歩く人の耳にも…
 廊下に沿って
 広間や回廊を横切る
 ひと昔前の
 豪華なホテルはバロック調で
 暗く果てしない廊下が続く
 静かで人気はなく
 暗く冷たい装飾
 木工や漆喰 羽目板 大理石
 黒ガラス 黒く描かれた絵
 円柱
 彫刻の施された扉が続き
 回廊や建物を横切る廊下は
 またも誰もいない広間に通じる

 ファーストショットが現れる以前に聴こえてくるその声は、はっきりと聴きとれる瞬間でも明らかに抑揚と感情を欠いており、その声が本来放たれる起因となったはずの肉体自身の存在すらも否定するかのような、声そのものの孤独のうちで鳴り響いている。その沈黙に限りなく近い饒舌は、まるで一人の亡霊が、遥か遠い昔の出来事の、もういまはすっかり朧げになってしまった記憶を蘇らせるべく、すでに失われた彼の瞳にかつて確かに映ったはずの光景の、いまもなお辛うじて残っている印象を反芻しているかのようだ。

 そしていま、もう一人の亡霊が現れる。映像と呼ばれるその亡霊は唐突に姿を見せたかと思うと、まるで重力の存在を否定するかのような透明極まりない流麗さであたりを動き回り、豪華なホテルらしい建築物の全体像を示すことなく天井や壁の装飾、鏡、廊下といった細部ばかりをゆっくりと捉えてゆく。その映像は、また朧げに鳴り響きはじめた声が語る情景に沿うかのような素振りを一瞬見せはするのだが、映像がゆっくりと移動してゆく方向は、声が指し示す情景から次第に離れていってしまう。映像は映像で、映像そのものの孤独のうちで浮遊し、傍らで鳴り響く声との蜜月を拒否するかのように振る舞う。
 肉体から切り離された声と、全体から切り離された映像。それらは互いに接近と離別を繰り返しながら、それぞれの不確かな記憶の中にあるはずの真実を、ある時は冷静に、またある時は興奮気味に暴き立てようと試みる。
 そのようにしていま不意に私たちの眼前に姿を現した『去年マリエンバートで』の声と映像のフォルムは、これからある女と男の記憶をめぐる物語を演じようとしている。では、その物語はいったいいかなる様相を呈することになるのか。

 

  

 いま、一人の女が誰もいない広間に立っている。左手を胸元に当て、微動だにせず立ち尽くすその姿は、現実に生きる一人の女優の自然な存在感の美というより、まるで若くして唐突に訪れた死に当の本人が気づくことなく、彼女が最も美しかった瞬間が永遠に固定されたままでいるかのような、極めて不自然で冷酷な美の輝きを放っている。そして、誰もいないはずの広間に立ったこの女を捉える映像が不意にパンすると、そこにいないはずの男が傍らに立っていることがわかる。この男もまた生者が本来湛えるはずの表情の豊かさ一切を欠いたまま硬直した姿勢で女に語りかけるのだが、ファーストショット以前から聴こえていたあの声が男の口元と同期するとき、孤独な亡霊のような声がついにみつけた自らの起因となりうる男の肉体もまた、すでにこの世に属するものではないのかもしれない、と私たちは想像してしまう。

 

 

 「あなたは変わらない。放心した瞳も、微笑も、唐突な笑いも。さしのべる腕も、子供か、木の枝かを避けてゆっくり肩のくぼみに。その香水の香りも同じ。憶えていますか?フレデリクスバートの庭園を。あなたは少しからだをかしげ、石の手すりにゆったりと手をのせて。庭の中央の道をながめるあなたに歩み寄り、私は少し遠くからあなたを見つめた。砂利を踏む私の足音にようやく気づき、あなたは振り向いた。」

 「それは私ではありません。人違いです」

 「大好きです。前から大好きです。あなたの笑い声が」

 男は女に自らの記憶を突き付け、女は何も覚えていないと言う。ここで重要なのは、この二人のどちらの記憶が正しいのか、といったようなことではない。
 女と男それぞれ固有の記憶同士が衝突することでいくつもの記憶が新たに生み出され、女は女で、男は男で、分裂した記憶の数ごとにその姿を増殖させてゆく様が、映画のフォルム自体の衝突と分裂、増殖によって示されることこそが重要なのだ。
 実際、二人が出会ったかもしれない場所はフレデリクスバートからカールシュタットへ、カールシュタットからマリエンバートへ、マリエンバートからバーデン・サルサへ、そしてまたこの誰もいない広間へと分裂し、増殖してゆく。昼の直後に夜、白い衣装の直後に黒い衣装、暗いバーのカウンターの直後に明るい部屋、静止の直後にダンス、殺された直後に生きている、といった具合に接続詞を欠いたショットの連鎖は、一つ一つのショットを物語上の直線的な関係から独立させることで、それぞれのショットに固有の生を与える。そのとき私たちは、まるで合わせ鏡の前に立った一人の亡霊のいくつもの虚像が当の亡霊本人から独立し、虚像の数ごとの生を新たに生きはじめる瞬間に立ち会ってしまったかのような深い戦慄を覚えずにはいられないのである。

 

 

 『去年マリエンバートで』の冷酷な美しさとはつまり、決して台詞によって語られる女と男の相反する記憶同士のすれ違いだったり、幾重にも錯綜した時間軸が見せる迷宮じみた謎自体によるものではなく、亡霊かもしれないフォルムと亡霊かもしれない男女が遭遇することによって生み出される死のイメージ同士が、上映時間のはじまりから終わりまでの間、不断に生起し続ける現在においてのみ、途方もない緻密さで衝突と分裂、増殖を繰り返し、それ自体が純粋に映画的な生の力へと反転するという力学によるものなのだ。
 映画とは、1秒間に24回繰り返される生と死である。誕生したその瞬間から否応なく自身の死と向き合わざるをえなかった映画という芸術の原理と、かつてこれほど真剣に向き合った作品が存在しただろうか。
 その真剣さを受け止めながら注意深く画面を見つめる観客にとって94分という上映時間は、「ちょうど夢の中でわたしたちが、ある宿命的な命令に操られていて、その命令にどんなわずかな変更を願っても、それから逃れようとしてもむだであると感じるときのように」(ロブ=グリエ)、映画のフォルムが演じるいくつもの生と死の物語によって視線を囚われながら、あっけなく過ぎ去っていくだろう。

 

 

 そしていま、ショットごとの生を生き直し終えた女と男の亡霊は、この合わせ鏡の迷宮から旅立とうとしている。いくつもの虚像に分裂し増殖した中のどれとも見分けのつくはずのない一人の女と一人の男は、それぞれがまた亡霊となり、合わせ鏡の前に立つときを待つことになるのだろうが、作品という固有のフォルムが上映時間ほどの生を生き終えたいま、女も男も、あのバロック調の豪華なホテルも、さらにはそれらのあらゆる細部までもが、私たちの視界から唐突に、そしてあっけなく消え失せて行ってしまった。
                                         (スタッフT.M.)

 
 
作家主義!フランス映画の偉大な傑作の数々をどうぞ

愛して飲んで歌って (アラン・レネ)
ピクニック デジタルリマスター版 (ジャン・ルノワール)
顔たち、ところどころ (アニエス・ヴァルダ)
ジェラシー (フィリップ・ガレル)
パリ、恋人たちの影 (フィリップ・ガレル)
ラブバトル (ジャック・ドワイヨン)
ハイ・ライフ (クレール・ドゥニ)
パーソナル・ショッパー (オリヴィエ・アサイヤス)
アクトレス 女たちの舞台 (オリヴィエ・アサイヤス)
冬時間のパリ (オリヴィエ・アサイヤス)
未来よ こんにちは (ミア・ハンセン=ラブ)
ダブル・サスペクツ (アルノー・デプレシャン)
あの頃エッフェル塔の下で (アルノー・デプレシャン)
グッバイ、サマー (ミシェル・ゴンドリー)
カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇 (ブリュノ・デュモン)
見えない太陽 (アンドレ・テシネ)
読書する女 (ミシェル・ドヴィル)
あるメイドの密かな欲望 (ブノワ・ジャコー)
エヴァ (ブノワ・ジャコー)
アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲(プレリュード) (クロード・ルルーシュ)
男と女 人生最良の日々 (クロード・ルルーシュ)
美しい絵の崩壊 (アンヌ・フォンテーヌ)
ボヴァリー夫人とパン屋 (アンヌ・フォンテーヌ)
ミス・ブルターニュの恋 (エマニュエル・ベルコ)
グランド・セントラル (レベッカ・ズロトヴスキ)
プラネタリウム (レベッカ・ズロトヴスキ)
わがままなヴァカンス 裸の女神 (レベッカ・ズロトヴスキ)


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(C)1960 STUDIOCANAL – Argos Films – Cineriz

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