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「夏の光をめぐって」 ジャン・ルノワール、大島渚、相米慎二、ミゲル・ゴメス、ジェフ・ニコルズ、ホウ・シャオシェン

 世界で初めて一般観客へ向けて上映された映画作品とされる『工場の出口』(1895)をルイ・リュミエールが撮影したのは、1894年の夏のことだったと言われています。このたった50秒の色も音もないワンショットの映像が人々の瞳に焼き付いて以来今日に至るまで、無数の映画作品が夏の光によって恩寵を授かってきました。いくら技術が発展し、色が着き、音が鳴り、キャメラが動き回り、映像がいくつものショットに分裂し、さらにはフィルムからデジタルデータへ姿を変えたとしても、いまだ映画にとって夏の光が特別なものに思われるのは、120年以上も前のあの日、まさに産声を上げようとしていた瞬間の遥かな記憶を、映画がいまもなお留め続けているからに他ならないのではないでしょうか。
 国籍も時代も関係なく、夏を映した映画であればそれを見たときにはいつでも感じるあの郷愁のような、胸が躍るようでいてどこか寂しげな不思議な感覚の秘密は、ひょっとしたらそんな映画の出自に纏わる記憶に隠されているのかもしれません。
 というわけで今回の「どれ観よ PICK UP」は、ビデックスJPで配信中の作品から厳選した夏映画の傑作6作品をご紹介します!!

ジャン・ルノワール『ピクニック』(1936)

あらすじ
 夏のある晴れた日。輝く太陽、匂い立つ草、穏やかな水面、幸せなピクニックの一日はきらきらと輝いていた。結婚を控えた娘アンリエットは自然に導かれるように、現地で出会った青年アンリと結ばれる。永遠に消えることのない一瞬の輝き。そして待ち受ける別れと再会。人生のすべてと美が結晶した奇跡の映画。

コメント
 戸外と室内、晴天と雨天、男と女、歓びと悲しみ、美しさと醜さ、無垢と欲望、通俗と芸術、静止と運動、饒舌と沈黙、光と影、永遠と一日。『ピクニック』とは、映画のあらゆる相対する事物や感情が互いに開かれるための窓であり、と同時に、その窓をときには微かに、ときには荒々しく吹き抜ける官能の風である。そしてその風はいつしか強大な竜巻のように渦を巻きはじめ、ちょうど『オズの魔法使』(1939)でジュディ・ガーランドが避難した部屋が宙空へ吹き飛ばされるように、あなたがいまいるその部屋までも、誰も見たことのない虹の彼方へと運んでゆくだろう。いささかロマンティックに過ぎる言いぶりだろうか。そう思われる方は一度この作品を見て、ブランコに揺られるシルヴィア・バタイユの輝きに不意撃ちを喰らってみてはいかがか。全世界の大気を揺るがすほどのショットというものがあるのだ。
 ブランコだけではない。このたった40分間の、あらゆる瞬間が驚きに満ちている。ジャン・ルノワールは形式ではない。一つたりとも予測しえないショットの連鎖であり、運動だ。誰もが無意識の中で待ち望んでいる途方もない何かが、いままさに眼前に姿を現わそうとしている瞬間の高揚と恐怖だ。
 映画はまだ自分が何者かさえ分かっていない。生まれたばかりの映画は、目に映る光景、鼓膜を震わせる音、指先に触れる物一切に驚いている。いったい映画はこれから何者になるのだろうか。この大嵐がやってくるような予感は、いったい何だろうか。
 人にそんな思いを抱かせる映画を作るのは、ジャン・ルノワールだけなのだ。

大島渚『夏の妹』(1972)

あらすじ
 大島渚最後のATG映画。素直子は父の婚約者でピアノの家庭教師でもある桃子と本土復帰直前の沖縄にやってきた。数ヶ月前、素直子は大村鶴男と名乗る沖縄の青年から手紙をもらい、自分たちは兄妹かもしれないというので、鶴男を訪ねて沖縄にやってきたのだった。下船した素直子はさっそく観光客に沖縄語を教えて金を稼ぐ青年と知り合い、親しくなる。実は彼こそが鶴男なのだが、彼は庭先で見かけた桃子を素直子だと勘違いしているので、二人はお互いに気づかないまま、すれ違いを繰り返していく。一方、沖縄人に自分を殺してほしいと、その相手を探す老人がいる反面、本土の人間を殺したいと願い、相手を探す男がいる。三世代それぞれの者たちの思いは交錯し、沖縄の青い空に溶け込んでいく……。

コメント
 本土から沖縄へ向かうべく足早に進む船のへりから海を見下ろした映像だろうか。ファーストショット。海面の青と波しぶきの白に浮かび上がる深紅のタイトル。どんな映画で見たよりも濃い青と白と紅に恍惚とする暇もなく、武満徹による映像と物語に従属することを断固として拒否するかのようなあまりにも和やかな旋律をいったん耳にしてしまえば、その後95分間は大島渚の「挑発」がもたらす快楽から逃げることはできないだろう。
 栗田ひろみの小動物的可憐さや、りりィの日本人離れした顔貌と裸体の曲線美、殿山泰司のてかり顔の猥雑さ、佐藤慶の鋭すぎる眼光といった魅力の数々は、それぞれ生半可な調和を受け入れることなく、むしろ沖縄の夏の陽射しに照らされながらコントラストを強めていき、次第に小山明子の不敵な微笑みが象徴するような「挑発」の巨大な肖像を浮かび上がらせる。大島渚の政治学とは、つまり、まるで嵌りそうにない形状のピース同士をあえて並べては力づくではめ込んでみせ、その折れ曲がったピースの隆起と陥没の手触りによって観客の知覚を「挑発」することである。ところで、そのようにして出来上がったパズルの総体のいびつさは、極東のどこかに位置する某国家の政治とよく似てはいないだろうか。

相米慎二『夏の庭-The Friends-』(1994)

あらすじ 
 神戸に住む小学6年生のサッカー仲間、木山諄、河辺、山下の3人は、人が死んだらどうなるかに興味を抱き、きっともうじき死にそうな近所に住む変わり者の老人・傳法喜八(三國連太郎)を観察することにした。朽ちた屋敷に忍び込み老人の日々を観察する。初めは子どもたちを邪険に追い払う喜八だったが、次第に優しく接するようになり、彼らとの交流が始まり、やがては子どもたちも庭の手入れを手伝うようになる。喜八は徐々に子ども達に自分の過去を語りだす。分かれた妻、戦争の残酷な体験・・・喪われ逝くものと、決して失われないものに触れた少年たちのひと夏の物語。

コメント
 いつどこで見たのかはっきりとは覚えておらず、物語も、ほとんどあらゆる細部も記憶から遠ざかってしまったにも関わらず、たった一つのショットだけは鮮明に記憶の表層に焼き付いたままでいるということがある。『夏の庭』で、三國連太郎演じる老人の死体を少年たちが発見し、動揺し、悲しみに暮れるというワンショットがその一つである。動かぬ老人に救命措置を試みるも時すでに遅し、脈が止まっているのを確認してようやく老人の死を少年たちが受け入れるに至る、その過程を相米はワンショットで捉えるのだが、仰向けに倒れた三國連太郎の腹がはっきりと上下に動いているのだ。キャメラワークを工夫すれば、あるいはカットを割れば映すのを避けることができたはずの腹の動きを相米は隠そうとせず、あえて観客に提示してみせる。
 『不滅の女』(1963)について、ヒロインの女は物語的に死んだのかどうかを尋ねられたアラン・ロブ=グリエが「役者を殺すはずがない」と身も蓋もなく答えたように、フィクションとしての映画は現実的な死を捉えることは絶対にできない(例えば人が本当に死ぬ瞬間を撮影したとしても死そのものは映らない)が、しかし、その不可能性に自覚的であってはじめて死を想像するためのイメージと運動を捉えることができるのだ。この現実的な不確かさと想像的な確かさの臨界点へとあえてキャメラを向けんとする態度こそが、相米の倫理なのである。

ミゲル・ゴメス『熱波』(2012)

あらすじ
 二人の恋は、ひりつく夏の日差しのように、熱く燃えあがって終わりを告げた。けれどその想いは、互いの胸の中で一生消えはしなかった。気性が粗く、ギャンブル好きの老婆アウロラ。彼女は、なかなか会いに来ない冷たい娘の事を気に掛けながら、お手伝いのサンタと、何かと世話を焼いてくれる隣人のピラールを頼りに暮していた。ある時、病に倒れたアウロラは、自分に死が迫っている事を知り、突然ヴェントゥーラという男を呼んでほしいと言い出す。ピラールは訳も分からず、消息不明のヴェントゥーラ探しに奔走する。二人には、ある約束があったのだ。そして50年の時をさかのぼり、二人が若かりし頃に出会ったアフリカ-タブウ山の麓での、胸を焦がすような熱い記憶が甦る。

コメント
 ミゲル・ゴメスをご存じだろうか。ポルトガルはおろか、世界を見渡してもいまや数人しかいないほど貴重な、真に女優を撮ることができる映画作家である。「女優を撮ることができる」とは、どういうことか。それは「完璧なショットを撮ることができる」とほぼ同義であるとひとまず言うことができる。
 アヴァンタイトルの短い寓話からはじまり、老女(アウロラ)とその召使、そして老女の唯一の理解者である隣家の中年女性という三人の女が演じる前半部分のショットはいずれも「完璧」である。スタンダードサイズの端正な構図の中のここしかないという位置で、光と影が絶妙なバランスで配されたライティングー40-50年代のハリウッドからそのまま射してきているかのようなーを受け止めながら佇む女たちのショット。この35mmフィルムで撮影されたモノクロのショットのすべてが文句のつけようのない完璧さで見る者を穏やかな興奮に誘う。
 と同時に、果たしてこのままでよいのだろうか、という一抹の不安が胸を過ぎる。この類の「完璧なショット」に作家が拘泥し、作品全編を貫いた結果として退屈さをもたらしてしまうという事態に幾度も立ち会ったことがあるからである。それを乗り越えるほどの強度ー例えばペドロ・コスタの『ヴィタリナ』(2019)ようなーを『熱波』のショットは持ち合わせていないように見えてしまうだ。
 そんな不安を見透かしたかのように、映画は孤独な死を迎えたアウロラの若かりし一時期の出来事を回想しはじめ、画面は16mmフィルムの粗い粒子に覆われる。そのとき、完璧だった構図は緩やかに崩れていき、キャメラはときに三脚から解き放たれ、それまでなかった躍動感が画面の隅々にまで行き渡っていく。回想の中の人物からは声が失われ、現在の時間からのモノローグだけが発声されることで、疑似的なサイレント映画の形式が立ち上がる。こうして2時間ほどの上映時間を大きく二つに分断してみせるミゲル・ゴメスは、かつて優れた短編作家であった自らの資質を把握しているかのようでもある。世界的に失われつつあるこの慎しい聡明さを持ち合わせているだけで、ミゲル・ゴメスを貴重な映画作家だと断じてしまいたい欲望にかられるのである。
 さらに、ミゲル・ゴメスの貴重さはこの聡明さに留まることはない。「完璧なショットを撮ることができる」ことと「女優を撮ることができる」ことの膠着した関係を、この16mmフィルムで撮影された後半部分であっさりと裏切ってみせるのだ。
 回想の中で、夫の子を身ごもりながら、夫とは対照的な野生的魅力に溢れる男と不倫関係に陥ったアウロラは、不意に訪れた男との別れを受け止めることができない。男との手紙だけのやりとりで互いにこの不義の関係を終わらせなければならないことを表明しあえばしあうほど、手の届かない愛情が激しさを増してゆくばかりだ。この禁止された愛の高まりに嗚咽し、打ち震え、言葉なしの涙を溢れさせるアウロラを捉えたショットーロネッツのBe My BabyをLes Surfsがスペイン語でカバーしたTú Serás Mi Babyが流れるーの素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。「望まれるのであれば、いつでもこの脈打つ心臓を差し出すわ」と手紙に書かれた言葉の通り、ここではいかなる打算、いかなる相対性とも無縁の唯一絶対の価値としての愛、つまりは、命がけの美が紛れもなく現前化している。決して「完璧な」画面たりえない16mmフィルムの粗い粒子に託された、痛ましく、暴力的なほどの美が。もしかするとミゲル・ゴメスが傑作『私たちの好きな八月』(2008)で捉えたあの若い女性の涙のショットを思い出す方もおられるかもしれない。そう、ミゲル・ゴメスは偶然このショットを撮りえたのではないのだ。自らの慎ましい聡明さという資質をいつ踏み外すべきか、大胆に飛躍すべきときはいつなのかということまでミゲル・ゴメスは心得ているのである。
 幸か不幸か再会を果たしたこの許されざる男女は、まさに命がけの美という呼び名に相応しく規範の道を踏み外し、最後の賭けに出るだろう。その果てにふと現れる一つのショットが、リュミエール兄弟によってベトナムに派遣されたガブリエル・ヴェールが撮影した『Le village de Namo : panorama pris d’une chaise à porteurs』(1900)と酷似しているという事態について思考しうる言葉を、人類はいまだ持ち合わせてはいない。

ジェフ・ニコルズ『Mud マッド』(2012)

あらすじ 
 アメリカ南部、ミシシッピ川中州にある小さな島が舞台。14歳の少年エリスとネックボーンは、その島に潜伏する奇妙な男マッドに出会う。マッドは2人に嘘か本当か、テキサスで殺人を犯し賞金稼ぎに追われているが、町で自分を待つ恋人ジェニパーに会うため助けを借りたいと話す。興味をもった少年たちは、マッドに協力することを決めるが…。

コメント
 この世には天使のように身も心も美しいヒロインなど存在しないし、世界を滅亡の危機から救う正義のヒーローも存在しない。ヒロインとヒーローによる脇目も振らない相思相愛の純愛が世界に希望を与えることもなく、あるのはただひたすら苦いだけの現実だ。社会のシステムに翻弄され、踏み躙られ、人間であることを否定され、否定性の只中に埋没しながら精一杯の歯軋りとともに残りの生を擦り減らす。他人よりも何ミリかはマシな人生を送るだけのために噓を吐き、裏切り、嫉妬し、疑い、出し抜き、蹴落とし、見捨て、引き攣った愛想笑いを浮かべる。人生など所詮そんなものだ。
 ハリウッドと呼ばれる夢の工場が機能不全に陥って以降、1970年代のアメリカ映画はそんな現実の苦さを、予算も技術も急速に失われていく映画の現実の苦さそのものを画面に生々しく露呈させる過程を通して物語るようになった。それからまた時は経ち、いまやスタジオを知る映画監督も技術者もみなこの世を去り、フィルムはデジタルに置き換えられ、その清潔な映像は崩壊の苦さの歴史などまるで存在しなかったかのようにスクリーンに映し出されている。
 整理整頓され、掃除され、漂白された情報で覆われた出口なしの世界。それこそいま私たちが生きる現実だ。ところがジェフ・ニコルズは、この出口なしの世界に風穴を開けることができると確信するように、35mmフィルムを回し続ける。ニコルズがこれまで監督した5本の長編映画(そのうち4本は2011年以降製作された)のいずれも35mmフィルムで撮影されているのだ。現在ニコルズが監督として抜擢されたと報じられている『A Quiet Place Part III』もかなりの確率で35mmフィルムによって撮影されることだろう。『クワイエット・プレイス』(2018)と『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』(2020)の2本を35mmフィルムによって撮り上げたジョン・クラシンスキーが3作目の監督に相応しい人物としてニコルズを選択したのは、ニコルズのフィルムへのこだわりとその達成をクラシンスキーが信頼していたからに他ならないはずだ。
 とりわけ『Mud マッド』でニコルズが作り上げた画面の質を見ると、フィルムの感触だけに頼った自堕落な「芸術作品」に留まるものではないことが分かる。ここではD.W.グリフィス以来の古典的なショットのつなぎ(古典的デクパージュ)が、現代映画としての新鮮さと矛盾することなく達成されているのだ。
 『Mud マッド』でマシュー・マコノヒーが初めて画面に姿を現すシーンを見てみよう。無人島を探検した二人の少年は、帰路を急ぐべく川べりに置いたボートに駆け寄る。ボートにたどり着いた少年の一人が自分らのものではない足跡を見つける。足跡の行く先を辿ってみると、砂浜の真中で足跡は途切れている。ボートの方へ振り返ってみると、そこにはついさっきまでいなかったはずの見知らぬ男が立っている。男は少年らへ向けて右手を上げ、言葉なしで挨拶する。
 このシーンにおける引きと寄り、同軸のつなぎと切り返し、視点ショットの挿入を組み合わせた20ほどの短いショットの連鎖は、心地よく観客の視線を誘導し、惑わしながらマシュー・マコノヒー演じる男の幽霊性を端的に表してみせる。絶景に彩られたわけではなく、無償の光が輝いているわけでもない、どこにでもありそうな砂浜を、このショットの連鎖によって、不穏かつ幻想的、そして決定的に忘れ難い出会いの場としてニコルズはあっさりと機能させてしまうのだ。
 中盤、両親の不和の中で少年が家出を決意するシーンの少年のクロースアップと部屋の窓の切り返しにしても、終盤で男が執着し続けた女とついに別れを告げるシーンの高低差と遠い距離を挟んだ無言の切り返しにしても、決定的に物語が動くシーンにおいてニコルズは、あえてどこにでもあるような現実的な場を選択し、端的で正確かつ新鮮なショットの選択によって純粋に映画的な空間に変貌させてみせる。
 ニコルズの作品が出口なしの現実に穴を穿つのはこういった瞬間だ。懐古趣味に陥ることなく冷静に歴史を見据え、現実と映画の苦さを取り戻したうえでさらにその先の、ボードレールの言う「この世の外」へ視線を馳せるのである。
 嘘と裏切りと嫉妬の果てに満身創痍の身体でついに船出した男が、相も変わらず苦いままの現実のその先に見据えるあの風景を、目を逸らすことなくしかと見届けていただきたい。

ホウシャオシェン冬冬の夏休み』(1984)

あらすじ
 1984年夏、冬冬(トントン)は妹の婷婷(ティンティン)を連れて、夏休みの期間中、祖父母の家に預けられることになった。目的地の銅鑼駅に降りたった二人を待っていたのは、村の少年たち。阿少國を初めとする少年たち。早速、仲良くなった友達がこれからの楽しい夏を予感させる。そして、一見厳しいが孫思いの祖父との交流、仲間たちとの川遊び、少し頭が弱いが婷婷を救ってくれた寒子(ハンズ)との出会い…田舎でのひと夏の経験は二人の心に忘れられない宝物を残してゆく―

コメント
 ここには自分の生が描かれている、と感じる映画の一本や二本は誰にでもあるだろう。『冬冬の夏休み』は私にとってそんな作品の一つである。それは決して、知的障害があり言葉を話さない我が妹を寒子に重ね合わせたり、親から妹の世話を託されながらも友人と遊びたい冬冬が妹の婷婷の存在を疎ましく思う感覚に似たものが幼い日の自分にもないわけではなかったことだけが理由ではない。
 最大の理由は、ホウ・シャオシェンのキャメラが「ずっと前からそこにあったような視点」で世界を捉えるからである。何百年か何千年か分からないが、いずれにせよ映画が誕生するずっと前から、そこに暮らす人々や家、動物、樹木、川、山といった土地の風景を、遠すぎも近すぎもしない距離から見つめ続けてきた精霊のような存在の視点。幾度となく繰り返されてきた生と死の営みを、審判することなく、物語ることもなくただ単に見つめるだけの視点。と同時に、台湾など行ったこともないのに、まるで自分がかつてそこで暮らしていたかのような錯覚に眩暈を覚えるような、そんな視点。ホウ・シャオシェンはまさにその場所にキャメラを置く。

 寒子の話をしよう。寒子はいつでも傘をさしている。紫色と水色の傘を、雨の日も、晴れの日も。寒子は言葉を話さない。子供たちは寒子の奇矯な様子を恐る恐る観察してはひそひそ笑い合う。大人たちは寒子が不幸な人だと言う。愚かな鳥狩りの男は抵抗も告げ口もしない寒子を犯し、子を孕ませもする。それでも寒子は動じない。いつものように傘をさして歩きたい道を歩き、いつもの木陰の道祖神にお祈りし、覚束ない手先でマッチを擦って美味そうに煙草をふかす。
 寒子は奇跡を起こす。冬冬とその仲間たちに追い払われた婷婷が、それでもこっそり兄についていこうとして踏切の線路に身を潜めていると、そこに電車がやってくる。寒子は間一髪で婷婷を救う。婷婷をおぶって家の前まで送り届けもする。誰よりもよく人を観察し、誰よりも村のことを知っているのは寒子だ。
 婷婷は、樹上の巣から落ちた生まれたての小鳥を見つける。冬冬は、もう死んでいるから川に流せ、そうすれば生まれ変わるだろう、と言う。もはや兄を信用していない婷婷は、本当に信頼できる唯一の存在である寒子のもとを訪れ、兄が言ったことが本当かどうか尋ねる。寒子は、小鳥の亡骸を両手に包み込み、どこまでも響きわたって行きそうな、悲痛極まりない嘆き声をあげる。
 強い風が吹く。樹々はざわめき、陽光が流れ、一瞬よりはいくらか長く続く白い閃光が寒子と婷婷を柔らかく包み込む。何のことはない、今も昔も、奇跡というのはそのようにしてやってくるものなのだ。
 その後、寒子の身に突然訪れる悲劇については語らずにおくが、この悲劇が寒子と婷婷という二人の疎外された者の瞳に誰よりも強いまなざしをもたらすということだけは語っておこう。二人のまなざしを捉えるとき、ホウ・シャオシェンのキャメラは無人称的な視点を外れ、初めて一人の映画作家、現実に生きる人間としての倫理を示す。言語外の意志の強度というべき、誰よりも寡黙で、誰よりも激しい感情がそこに立ち上がる。
 そうして冬冬と婷婷の夏休みは終わる。都会に帰る車が到着する。婷婷は寒子の姿を見つける。寒子はいつものように傘をさして歩いている。婷婷は寒子の名を呼ぶ。寒子は振り返らない。色彩鮮やかな傘が、いつものように揺れている。
 都会に帰った冬冬と婷婷が成長し、恋をし、結婚し、子を育て、年老いて最後の瞬間を迎えるとき、ひょっとしたらこの夏のことをふと思い出すかもしれない。そんな夏の一つや二つは誰にでもあるだろう。
 土地の精霊の視点に立ち戻ったキャメラは、都会へ帰ってゆく冬冬と婷婷を乗せた車を見送る。何百年か何千年かわからないが、ずっと前からそこに流れていた風が今日も吹き、樹々を優しくざわめかせた。

                                         (スタッフT.M.)

                                

まだまだあります!ビデックスJPの夏映画!!

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