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‘2021/07’ カテゴリーのアーカイブ

2021年ビデックスJP上半期ランキング

2021/07/23

今年から上半期ランキングを実施することになりました。
※年間ランキングはこちら

2021年1月から6月までの各セクションについて
1位から5位まで発表します!

発売日は考慮せずのランキングとなっているため、
懐かしい作品も結構入っていました。

ビデックスのランキングですので、
大手サイトとはだいぶ変わっていると思いますが、
是非今後の参考としてみてください。

映画アニメバラエティドラマグラビアの順で発表します!

映画

1位 ばるぼら
ばるぼら

手塚治虫の禁断の問題作。
狂気の果て。あれは、幻だったのだろうか―

2位 ペネロピ
ペネロピ

豚の鼻を持って生まれてきた私は
夢見ていた―
恋することを。

3位 はぐれアイドル地獄変
はぐれアイドル地獄変

芸能界の生き残りをかけて戦うセクシーアイドルが
現実世界に降臨!!

4位 KT
5位 神は死んだのか

今月のランキング

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アニメ

1位 ひみつのアッコちゃん(第1作目)
ひみつのアッコちゃん(第1作目)

テクマクマヤコン、テクマクマヤコン♪コンパクトで大変身!
ある時は天使、ある時はお姫さま……その正体はアッコちゃん
鏡の中から飛び出した、魔女っ子アニメの金字塔

2位 美少女戦士セーラームーンS
美少女戦士セーラームーンS

セーラーウラヌス・ネプチューン・そしてセーラーサターン登場!
タリスマンをめぐるデスバスターズとの攻防!破滅を導く沈黙の救世主とは!?

3位 魔法使いサリー(第2作)
魔法使いサリー(第2作)

マハリクマハリタは夢と愛と幸せの呪文
夢と愛と希望の呪文が、あなたに幸せをお届けします
魔女っ子ものの原点・サリーちゃんの第2作

4位 ひみつのアッコちゃん(第3作目)
5位 ドラゴンボールZ

今月のランキング

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バラエティ

1位 ネットで噂の「ヤバイニュース」超真相
ネットで噂の「ヤバイニュース」超真相

今最も危険な要注目ニュースサイト『TOCANA』制作の初テレビバラエティ!
人気記事の完全実写化を中心にお届け!!

2位 ○○温泉 女子部
○○温泉 女子部

人気グラビア・アイドルたちが鹿児島県内の名所、名湯を紹介!

3位 にけつッ!!
にけつッ!!

今最も勢いのある千原ジュニアとケンドーコバヤシがお届けする
肩肘張らずに楽しめる深夜ならではの異色トークバラエティー。

4位 UNLIMITS pre”夢幻の宴vol.24~夢幻シンドロームのマーチ~”/UNLIMITS
5位 Apeace self produce

バラエティ(パチンコ・パチスロ)

1位 嵐・梅屋のスロッターズ☆ジャーニー
嵐・梅屋のスロッターズ☆ジャーニー

嵐・梅屋シンがノリ打ちで全国制覇に挑戦

2位 海賊王船長タック season.8
海賊王船長タック season.8

大人気パチンコ・パチスロ実戦冒険活劇!

3位 S-1GRAND PRIX
S-1GRAND PRIX

プロによる最強スロッター決定戦

4位 パチンコ実戦塾
5位 黄昏☆びんびん物語

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ドラマ

1位 僕の秘密兵器
僕の秘密兵器

ミスマガジンがくすぐられて悶え・・・絶叫!

2位 ドラマ「弱虫ペダルSeason2」
ドラマ「弱虫ペダルSeason2」

日本の自転車ロードレース作品。通称「弱ペダ」

3位 タンク・ソルジャーズ ~史上最大の戦車戦に挑んだ兵士たち~

大地を焼き尽くす、鋼鉄の軍団。運命を生き抜け、若き兵士たち。

4位 ゆるい
5位 君はどの星から来たの?

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グラビア

1位 恋の花が咲く 緒方咲
恋の花が咲く 緒方咲

艶かしい腰つきやプリッとしたお尻柔らかくて魅力溢れるボディであなたを悩殺いたします!!

2位 好きの瞬間 高梨瑞樹
好きの瞬間 高梨瑞樹

ナイスなプロポーションとキュートな笑顔。美しさに一段と磨きがかかったみずきちゃんは必見です!!

3位 本当の彼女は 奈良歩実
本当の彼女は 奈良歩実

スタイル抜群のエキゾチック美形お姉さんが魅ぜる悩殺ポーズにきっと貴方は釘付けになるはず。

4位 Dangerous Love 森咲智美
5位 絶対澪度 藤井澪

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ビデックスJPは話題の映画や海外ドラマ、TVで放送中のアニメやドラマ、パチンコパチスロ番組など
豊富なコンテンツをレンタルビデオのように観たい作品を1本から手軽にご覧いただける動画配信サービスを提供しております。
スマホ・タブレット・TV・パソコンからすぐご視聴いただけます。

映画トレーラー広報部の活動が見れる公式Youtubeチャンネルもあるので、
興味のある方はぜひそちらも見てみてください♪

※リンク切れになる場合は販売を終了した作品となります。ご了承いただけると幸いです

コンドーゾンビ

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(C)2019『ばるぼら』製作委員会/(C)2006 Tatira Active Filmproduktions GmbH & Co. KG/(C)高遠るい/日本文芸社 (C)セディックドゥ/(C)赤塚不二夫・東映アニメーション/(C)武内直子・PNP・東映アニメーション/(C)光プロダクション・東映アニメーション/(C)JAB/(C)TOCANA/(C)H&Sエンターテイメント/C)2011 ytv/(C)僕の秘密兵器製作委員会/(C)渡辺航(週刊少年チャンピオン) 2008/スカパー!・東宝・舞台「弱虫ペダル」製作委員会/(C) Ltd ”Bubblegum Production/GUILD/(C)ギルド

「本当のことを云おうか」 ショットの即物的、倒錯的快楽について アラン・ロブ=グリエ『不滅の女』

2021/07/09

 
 初脚本作である『去年マリエンバートで』(1961年)で世界的な成功を収めたアラン・ロブ=グリエは、1963年に初監督作となる『不滅の女』を製作します。その後ロブ=グリエは、ヌーヴォー・ロマンの代表的な作家でありながら生涯で10本もの映画を監督することになりますが、そのすべてが小説家の素人芸の域をはるかに超えた高度に斬新で充実した映画的達成を見せています。日本では長い間ほとんど見る機会のない幻の映画であったロブ=グリエ作品は、2018年のレトロスペクティブを皮切りにようやくその全貌を現わそうとしています。
 今回はそんな映画作家ロブ=グリエの記念すべき第一歩となった『不滅の女』にスタッフT.M.氏が挑みます!T.M.さん、準備はよろしいでしょうか?

 

 

 「その本当の事は、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なんだよ。蜜はそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?」                       
                              大江健三郎 『万延元年のフットボール』


 本当のことを云おうか、とアラン・ロブ=グリエは呟く。小説がそうであるように、映画にもまた物語など存在しない。小説であれば存在するのは白い紙の上で踊る黒い染みばかりだし、映画であればスクリーンの表面に浮かび上がる光と影の荒唐無稽な戯れが存在するだけだ。映画は1秒間に24回繰り返される虚構である。その身も蓋も無い即物的な現実を、ロブ=グリエは決してもっともらしい自然さで取り繕うことなく、あられもない姿のまま観客の前に放り出してみせる。
 1895年に誕生して以来、無数の物語という装飾に包み込まれ続けてきた映画からその虚飾を引き剥がし、もはや廃墟となりつつある構造そのものを露呈させること。その残酷極まりない遊戯を人はロブ=グリエの作品と呼ぶのである。
 『去年マリエンバートで』とほぼ同時期に製作されたロブ=グリエの処女作『不滅の女』におけるショットごとの断絶・飛躍によって時間軸を錯綜させてゆくという構造は『去年マリエンバートで』から一貫した発想によるものだといえるが、しかし『不滅の女』の作品としての印象は『去年マリエンバートで』とはまったく異なっているといえるだろう。まるでよく似た相貌の双子の兄弟が真逆の性格を持ち合わせているかのようでもある。おそらくは品行方正な兄に対する出来の悪い弟と一般的には見なされているであろう『不滅の女』の問題児ぶりを、ここではつぶさに観察してみようと思う。

 

 

 半ば瓦礫と化した姿で連なる建築物を捉えた移動ショットは、『去年マリエンバートで』の完璧に安定した超自然的な浮遊感とは真逆の、極めて現実的な荒々しさで見るものを困惑させる。観客にフレームの外の存在を上映時間の間すっかり忘却させるほどの透明な美で見るものを陶酔させたあの『去年マリエンバートで』の移動ショットが、ここでは、フレームの中にしか存在することのできないショットとしての自らの限界に苛立ちを隠そうとせず、フレームの外の現実へ向かって息せき切って逃れ去ろうとしている。建築物であることを辞めようとすればするほど、自らの建築物としての構造を露呈させてしまうという存在論的な限界に打ちひしがれているような風情の廃墟の群れに自らの似姿を見る『不滅の女』のファーストショットは、それが不可能であることを十分に理解しながら、なおも映画であることを辞めてしまいたいと欲望する悲愴な衝動に突き動かされれば突き動かされるほど、自らの映画としての構造そのものと向かい合わざるをえなくなる。
 しかし、この痛ましい逃避行も長くは続かない。突如鳴り響いたいかにも自動車の事故が発生したらしい衝撃音によってショットの持続が断ち切られるからだ。自動車事故という物語上の事件を示すにしては映像に特別工夫もなく、フィクションとしてのリアリティを著しく欠いた紋切り型の音響だけが鳴り響くとき、ロブ=グリエはこのファーストショットに対して、ショットはショットでしかないという身も蓋も無い現実を突き付けてみせる。
 続いて現れた女のクロースアップにしても、「寝そべって瞬きせず表情も変えずキャメラを見つめ続けろ」と演出されたであろう女優の身も蓋もない現実そのものが映し出されている。映画のショットである以上、一定時間持続する物語においてリアルな説得力を持つ一断片を形成し、観客との共犯関係を築くことを目指すのが一般的な意味での撮影なり演出なり編集というものであるが、ロブ=グリエはそういった製作者と観客による妥協の産物であるところの馴れ合いを拒否する。それどころかロブ=グリエは、映画撮影の現場に一度でも立ち会ったことがなければ知りえない撮影行為というものの不自然さそれ自体を、隠蔽することなくこれ見よがしに提示して、馴れ合いを求める観客の神経を逆撫でしようというのだ。

 そもそもがこのクロースアップの女もその女を求め続ける主人公の男も取り立てて美形であるということもなければ演技が達者であるわけでもなく、素人らしさがリアリズムの再構築に貢献するといったこともない。表情、話し方、歩き方、立ち止まり方といったあらゆる身振りは物語への貢献を避け、人物の感情を説明することもない。ロベール・ブレッソンやジャック・タチの場合とも印象の異なるその不自然さは、まるでただ監督にそうしろと言われたからそうしているといった感触の身も蓋もなさを失うことは一切ない。また、この二人の人物ばかりでなく、女と陰謀めいた関係がありそうでなぜかドーベルマンを何頭も連れたサングラスの男だったり、観光客相手にうさんくさい土産物を売りつける男だったり、主人公の男を地下の廃監獄へ導く少年だったりという『不滅の女』に登場するあらゆる人物がフィクション上の自然さを欠いたまま、不自然さばかりを遠慮なく発揮してみせる(ロブ=グリエの夫人であるカトリーヌ・ロブ=グリエだけがいくらか楽しそうに演じているようにみえるのが微笑ましい。その後いくつものロブ=グリエ作品に出演し、その素晴らしい存在感を見せているのだから、彼女はここで何かをつかんでしまったのかもしれない)。

 

 

 さらには、ショットのあり方についても『去年マリエンバートで』の場合と大きく異なる様相を呈している。『去年マリエンバートで』においては、ホテルの庭だったり、女の明るい部屋だったりという印象的な場所が何度も繰り返して現れるのだが、一度選択されたキャメラアングルが再び選択されることはなく、かつ、それぞれすべてが完璧な美しさを有しているので、そのあまりの贅沢さに恍惚とさせられる。しかし、『不滅の女』の場合はというと、冒頭でこれ見よがしに映し出された船上、草木が生い茂る庭園、海鳥が飛び交う砂浜、男が窓辺でブラインドを覗く部屋、そして寝そべった女の硬直したクロースアップといった印象的なショットの数々が、反復して現れるたびに同じアングルに留まっているのだ。
 物語はたしかに進行している。男は偶然出会った女にたしかに惹かれているし、女の不意の失踪に男はたしかに戸惑っていて、その失踪の秘密はきっとあのドーベルマン連れの男が握っているだろう、等々。台詞上それは理解できつつ、しかし、そういった展開を映し出すショット自体は、何度も反復し、それも同一のアングルで同じ場所を映し出す。といってもそれは、それぞれの場所における全ショットを一日で撮影したかのようなB級的な貧しき者の力がもたらす活劇性の魅力とも異なっている。『不滅の女』はただひたすら、贅沢なまでに即物的なのだ。主人公も脇役も、生きている女も死んだ女も、部屋も船上も浜辺も廃監獄もすべてが同質の即物性をもって代わる代わる画面上に現れては消えていく。そしてこれらのショットは、物語の進行がいよいよ核心に触れようとしていると観客に期待を抱かせた途端に、また核心から遠く離れた元の場所にそっくりそのまま収まってしまい、その瞬間、期待を裏切られた観客の目にはただ即物的な映像が映っているだけなのだが、それがこれほどまでに豊かに見えてしまうのは何故だろうか。
 凡庸な素人が適当に撮ってこういくものではない。徹底した緻密さで演出され、撮られ、編集されないかぎりこのタッチは生まれようがないのである。この技術の獲得に至った映画作家は、映画史を見渡してもロブ=グリエ一人しかいないだろう。彼は最後の作品に至るまで孤独にこの即物的な、としか言いようがない独特のタッチと戯れ続けたが、あくまで小説家として名を成した人間が何の経験もなく不意に撮り上げてしまった処女作の段階でそのタッチが達成されてしまったのは映画史上の永遠の謎である(ロブ=グリエは『去年マリエンバートで』の撮影現場に一度も訪れなかったらしい。アラン・レネの演出に影響されなかったことで、映画の撮影現場というものの純粋に身も蓋もない現実と無垢な心で向き合うことができ、そのことで何かに目覚めてしまったのではないか)。

 

 

 さて、最後にもう一つ本当のことを云おうか。
 私がそうであるように、延々と反復される期待と裏切りによって神経を逆撫でされたはずの観客の中には、激昂したり素知らぬ顔で画面から視線を逸らしてみせるどころか、その否定性の残酷さ、物語を否定する即物性に対して快楽を得てしまう者が確実に存在する。一般的には反映画的とみなされている瞬間のことごとくが、この上ない魅力で溢れた純粋に映画的な瞬間に感じられてしまう倒錯者のことである。そうなってしまったが最後、その観客はすでにロブ=グリエに導かれるまま、あの廃墟の暗い奥底にそびえたつ壁の鎖に視線を縛られ、『不滅の女』のあのクロースアップのように瞬きせず表情も変えず画面を見つめてしまっているに違いない。だからこそ、映画作家ロブ=グリエとその作品への愛を口にするときは注意したほうがよろしい。それはきっと、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なのだから。あなたはそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?

                                          (スタッフT.M.)




アラン・ロブ=グリエ監督作品6本、好評配信中!!

不滅の女
ヨーロッパ横断特急
嘘をつく男
エデン、その後
快楽の漸進的横滑り
囚われの美女

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(C) 1963 IMEC

※ご留意事項※ 将来、テキストや画像をクリックし、飛び先がリンク切れになる場合は、配信期間が過ぎ終了した為です。ご了承いただけると幸いです。

亡霊は至るところに アラン・レネ『去年マリエンバートで』

2021/07/09

 


 「映画史上最も難解な映画」と評されたこともあるアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』。1959年に広島を舞台にした『二十四時間の情事』を監督し、長編第一作でありながら批評的成功を収めたレネは、ヌーヴェル・ヴァーグの最重要人物の一人とみなされるようになります。その後レネは1961年に長編第2作としてこの『去年マリエンバートで』を監督しますが、本作の脚本を務めたのは、なんとヌーヴォー・ロマンの代表的な小説家でもあるアラン・ロブ=グリエ。1957年の『嫉妬』と1959年の『迷路のなかで』ですでに新進気鋭の小説家として注目されていたロブ=グリエは、初めて映画脚本を手掛けたにもかかわらず、本作でアカデミー脚色賞にノミネートされ、作品としてもヴェネツィア国際映画祭で最高賞である金獅子賞を受賞します。
 そんな時代の寵児二人がタッグを組んだ映画史上の名作中の名作である『去年マリエンバートで』を、スタッフT.M.氏はどのように見たのでしょうか。最後までごゆっくりお楽しみください。
 

 

 

「観客が最も自問しがちな疑問は、以下のようなものだ。この男と女は本当に去年マリエンバートで恋に落ちたのか?若い女は覚えていて、単にあのハンサムな見知らぬ男のことを知らないふりをしているだけなのか?それとも彼女は自分たちの間に生じたことを、本当にすっかり忘れてしまっているのか?等々。一点だけ再確認しておこう。そんな疑問には何の意味もない」

「そのフォルムにこそ、映画の真の内容を求めねばならない」  
                                       アラン・ロブ=グリエ


 いま、微かな声が聴こえはじめ、それは次第に私たちの耳にもはっきりと聴きとれるほど声量を増してゆくのだが、いつの間にかまた私たちの耳から遠ざかっていってしまう。

 誰もいない広間に通じる
 ひと昔前の装飾が重苦しい
 人の足音も
 分厚い絨毯に吸い込まれてしまう
 あまりの分厚さに
 何の音も届かない
 歩く人の耳にも…
 廊下に沿って
 広間や回廊を横切る
 ひと昔前の
 豪華なホテルはバロック調で
 暗く果てしない廊下が続く
 静かで人気はなく
 暗く冷たい装飾
 木工や漆喰 羽目板 大理石
 黒ガラス 黒く描かれた絵
 円柱
 彫刻の施された扉が続き
 回廊や建物を横切る廊下は
 またも誰もいない広間に通じる

 ファーストショットが現れる以前に聴こえてくるその声は、はっきりと聴きとれる瞬間でも明らかに抑揚と感情を欠いており、その声が本来放たれる起因となったはずの肉体自身の存在すらも否定するかのような、声そのものの孤独のうちで鳴り響いている。その沈黙に限りなく近い饒舌は、まるで一人の亡霊が、遥か遠い昔の出来事の、もういまはすっかり朧げになってしまった記憶を蘇らせるべく、すでに失われた彼の瞳にかつて確かに映ったはずの光景の、いまもなお辛うじて残っている印象を反芻しているかのようだ。

 そしていま、もう一人の亡霊が現れる。映像と呼ばれるその亡霊は唐突に姿を見せたかと思うと、まるで重力の存在を否定するかのような透明極まりない流麗さであたりを動き回り、豪華なホテルらしい建築物の全体像を示すことなく天井や壁の装飾、鏡、廊下といった細部ばかりをゆっくりと捉えてゆく。その映像は、また朧げに鳴り響きはじめた声が語る情景に沿うかのような素振りを一瞬見せはするのだが、映像がゆっくりと移動してゆく方向は、声が指し示す情景から次第に離れていってしまう。映像は映像で、映像そのものの孤独のうちで浮遊し、傍らで鳴り響く声との蜜月を拒否するかのように振る舞う。
 肉体から切り離された声と、全体から切り離された映像。それらは互いに接近と離別を繰り返しながら、それぞれの不確かな記憶の中にあるはずの真実を、ある時は冷静に、またある時は興奮気味に暴き立てようと試みる。
 そのようにしていま不意に私たちの眼前に姿を現した『去年マリエンバートで』の声と映像のフォルムは、これからある女と男の記憶をめぐる物語を演じようとしている。では、その物語はいったいいかなる様相を呈することになるのか。

 

  

 いま、一人の女が誰もいない広間に立っている。左手を胸元に当て、微動だにせず立ち尽くすその姿は、現実に生きる一人の女優の自然な存在感の美というより、まるで若くして唐突に訪れた死に当の本人が気づくことなく、彼女が最も美しかった瞬間が永遠に固定されたままでいるかのような、極めて不自然で冷酷な美の輝きを放っている。そして、誰もいないはずの広間に立ったこの女を捉える映像が不意にパンすると、そこにいないはずの男が傍らに立っていることがわかる。この男もまた生者が本来湛えるはずの表情の豊かさ一切を欠いたまま硬直した姿勢で女に語りかけるのだが、ファーストショット以前から聴こえていたあの声が男の口元と同期するとき、孤独な亡霊のような声がついにみつけた自らの起因となりうる男の肉体もまた、すでにこの世に属するものではないのかもしれない、と私たちは想像してしまう。

 

 

 「あなたは変わらない。放心した瞳も、微笑も、唐突な笑いも。さしのべる腕も、子供か、木の枝かを避けてゆっくり肩のくぼみに。その香水の香りも同じ。憶えていますか?フレデリクスバートの庭園を。あなたは少しからだをかしげ、石の手すりにゆったりと手をのせて。庭の中央の道をながめるあなたに歩み寄り、私は少し遠くからあなたを見つめた。砂利を踏む私の足音にようやく気づき、あなたは振り向いた。」

 「それは私ではありません。人違いです」

 「大好きです。前から大好きです。あなたの笑い声が」

 男は女に自らの記憶を突き付け、女は何も覚えていないと言う。ここで重要なのは、この二人のどちらの記憶が正しいのか、といったようなことではない。
 女と男それぞれ固有の記憶同士が衝突することでいくつもの記憶が新たに生み出され、女は女で、男は男で、分裂した記憶の数ごとにその姿を増殖させてゆく様が、映画のフォルム自体の衝突と分裂、増殖によって示されることこそが重要なのだ。
 実際、二人が出会ったかもしれない場所はフレデリクスバートからカールシュタットへ、カールシュタットからマリエンバートへ、マリエンバートからバーデン・サルサへ、そしてまたこの誰もいない広間へと分裂し、増殖してゆく。昼の直後に夜、白い衣装の直後に黒い衣装、暗いバーのカウンターの直後に明るい部屋、静止の直後にダンス、殺された直後に生きている、といった具合に接続詞を欠いたショットの連鎖は、一つ一つのショットを物語上の直線的な関係から独立させることで、それぞれのショットに固有の生を与える。そのとき私たちは、まるで合わせ鏡の前に立った一人の亡霊のいくつもの虚像が当の亡霊本人から独立し、虚像の数ごとの生を新たに生きはじめる瞬間に立ち会ってしまったかのような深い戦慄を覚えずにはいられないのである。

 

 

 『去年マリエンバートで』の冷酷な美しさとはつまり、決して台詞によって語られる女と男の相反する記憶同士のすれ違いだったり、幾重にも錯綜した時間軸が見せる迷宮じみた謎自体によるものではなく、亡霊かもしれないフォルムと亡霊かもしれない男女が遭遇することによって生み出される死のイメージ同士が、上映時間のはじまりから終わりまでの間、不断に生起し続ける現在においてのみ、途方もない緻密さで衝突と分裂、増殖を繰り返し、それ自体が純粋に映画的な生の力へと反転するという力学によるものなのだ。
 映画とは、1秒間に24回繰り返される生と死である。誕生したその瞬間から否応なく自身の死と向き合わざるをえなかった映画という芸術の原理と、かつてこれほど真剣に向き合った作品が存在しただろうか。
 その真剣さを受け止めながら注意深く画面を見つめる観客にとって94分という上映時間は、「ちょうど夢の中でわたしたちが、ある宿命的な命令に操られていて、その命令にどんなわずかな変更を願っても、それから逃れようとしてもむだであると感じるときのように」(ロブ=グリエ)、映画のフォルムが演じるいくつもの生と死の物語によって視線を囚われながら、あっけなく過ぎ去っていくだろう。

 

 

 そしていま、ショットごとの生を生き直し終えた女と男の亡霊は、この合わせ鏡の迷宮から旅立とうとしている。いくつもの虚像に分裂し増殖した中のどれとも見分けのつくはずのない一人の女と一人の男は、それぞれがまた亡霊となり、合わせ鏡の前に立つときを待つことになるのだろうが、作品という固有のフォルムが上映時間ほどの生を生き終えたいま、女も男も、あのバロック調の豪華なホテルも、さらにはそれらのあらゆる細部までもが、私たちの視界から唐突に、そしてあっけなく消え失せて行ってしまった。
                                         (スタッフT.M.)

 
 
作家主義!フランス映画の偉大な傑作の数々をどうぞ

愛して飲んで歌って (アラン・レネ)
ピクニック デジタルリマスター版 (ジャン・ルノワール)
顔たち、ところどころ (アニエス・ヴァルダ)
ジェラシー (フィリップ・ガレル)
パリ、恋人たちの影 (フィリップ・ガレル)
ラブバトル (ジャック・ドワイヨン)
ハイ・ライフ (クレール・ドゥニ)
パーソナル・ショッパー (オリヴィエ・アサイヤス)
アクトレス 女たちの舞台 (オリヴィエ・アサイヤス)
冬時間のパリ (オリヴィエ・アサイヤス)
未来よ こんにちは (ミア・ハンセン=ラブ)
ダブル・サスペクツ (アルノー・デプレシャン)
あの頃エッフェル塔の下で (アルノー・デプレシャン)
グッバイ、サマー (ミシェル・ゴンドリー)
カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇 (ブリュノ・デュモン)
見えない太陽 (アンドレ・テシネ)
読書する女 (ミシェル・ドヴィル)
あるメイドの密かな欲望 (ブノワ・ジャコー)
エヴァ (ブノワ・ジャコー)
アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲(プレリュード) (クロード・ルルーシュ)
男と女 人生最良の日々 (クロード・ルルーシュ)
美しい絵の崩壊 (アンヌ・フォンテーヌ)
ボヴァリー夫人とパン屋 (アンヌ・フォンテーヌ)
ミス・ブルターニュの恋 (エマニュエル・ベルコ)
グランド・セントラル (レベッカ・ズロトヴスキ)
プラネタリウム (レベッカ・ズロトヴスキ)
わがままなヴァカンス 裸の女神 (レベッカ・ズロトヴスキ)


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(C)1960 STUDIOCANAL – Argos Films – Cineriz

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